『死』は『生』を映し出す鏡
相反するものは互いを必要としている。これは二元化した物理世界における絶対法則と言っていい。
光は闇があるから存在を証明できる。逆もまた然り。光しかない世界、あるいは闇しかない世界では、どちらもそれぞれの存在を証明することができない。
善悪の概念は時代によって変化するが、いつの時代においても両者の関係は同じ。善を定義することで悪を説明できる。そして悪を概念化することで善を語ることが可能になる。不思議なもので、善も悪も互いを必要としているように思える。
そして『死』によって、『生』が浮き彫りにされる。死を意識することによって、生きることの意味が見えてくる。
そのことをテーマとして扱った映画を観た。地味な印象だけれど、とてつもなく素晴らしい作品だった。
『僕が星になるまえに』(原題:Third Star)という2010年のイギリス映画。調べてみると、日本での公開は2013年になっている。
29歳になったジェームズは30歳になることができない。なぜなら末期がんだったから。残された時間を利用して、ジェームズはある旅を計画する。それは彼が世界一好きな場所であるウェールズのバラファンドル湾へ行くこと。
その旅の一行が写真の4人。ジェームズ、親友のビルとマイルズ、そして病気になった彼の世話をしているデイヴィーというメンバー。ジェームズは常にモルヒネを必要とするので、デイヴィーの同行は欠かせない。
最初は面白おかしく旅がスタートする。だけど様々な出来事があって、物語の空気感が一気に変化する。死を覚悟しているものの、ジェームズはもっと生きたい、もっと時間が欲しいと強く感じている。
だから薬の効き目が切れてイライラしてくると、他の3人の人生にケチをつけたくなる。ビルには妥協したドラマを作って人生を無駄にしていることを責め、マイルズにはあきらめた小説を書くように迫り、失業中のデイヴィーには自分の死後の生活設計がないことを嘆く。
だけど親友の死を前にして、彼らも反発する。ジェームズから見れば怠惰なように見えても、それぞれが必死で人生を生きていたから。ジェームズとのちがいは、まだ時間が残されているということ。
親友たちのやり取りを通じて、映画を観ているボクたちも生と死について考えさせられる。差し迫ったジェームズの死が、他の3人の人生をあぶり出していくのを目撃する。そしてそれは同時に、観客の人生をも浮き彫りにしてしまう。
友人たちの『生』を語ることによって、必然的にジェームズの『死』が無視できなくなる。安楽死の問題も取り上げている作品なので、ラストは相当に切ない。でも決して受け入れ難いものではない。この感覚は映画を観ないとわからないかもしれない。
ジェームズを演じたベネディクト・カンバーバッチだけでなく、他の3人の演技も本当に素晴らしかった。さすがイギリスの俳優さんたちだよね。邦題のマズさが残念だけれど、生と死について真剣に考えることのできる秀作だった。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。