強制は変化の母かも
今日も4日ぶりに買い物へ行った。神戸はまだ緊急事態宣言が解除されていないせいか、駅の周辺はひっそりしていたし、スーパーもここ数週間のように、いい意味での緊張感が持続していた。
すれちがう人たちをながめていると、普通に過ごしている様子なのは見た目だけで、その人なりに我慢をしていることがいくつもあるだろうと思う。その結果、強制的にいままでとはちがう生活を強いられているはず。
だけどものは考えよう。人間という生き物は変化が怖い。だから心で変わろうと思っていても、現状維持に固執してしまう。そのほうが楽だから。
そういう意味では、新型コロナウイルスは変化のチャンスを促してくれていると思う。アフターウイルスという言葉が示しているように、ウイルスの終息後は以前と同じ状態には戻らない。自粛という強制的な変化を経験したせいで、あともどりできないことが増えている。
満員電車の通勤、新幹線での出張、顔を突き合わせての会議、教室に集まっての授業、職場の飲み会というような当たり前に思っていたことが、本当はなくてもいいんじゃない? と思っている人が増えているはず。
さらにキツいことを言えば、もっと社員を減らしてもいいよな、と会社の経営者は感じているかも。あの部署はいらないし、あのシステムも不要だな、と真剣に考えている経営者だっているはず。コロナがなければ気づけなかったり、思い切れないことを実行したからだよね。
我が家のような小さな単位でも、同じようなことが起きている。トイレットペーパーとティッシュペーパーが品薄になった。それで我が家では紙の使い方を変えた。
それまでは猫のミューナが嘔吐すると、ティッシュペーパーで取っていた。猫はよく吐くからね。でもよく考えたら紙の単価としてはトイレットペーパーのほうが安い。だからある場所にトイレットペーパーを置くことで、ティッシュペーパーの代わりに使うようになった。
これもトイレットペーパー騒動がなかったら、おそらく以前のままだったはず。そのおかげで、より効率的に生活できるようになった。
最近ではゴミ袋に関するものがある。自宅マンションは大規模修繕の真っ最中。だから以前はバルコニーにゴミ袋を置いていたけれど、いまは部屋のなかに入れている。
この状態に慣れてきたんだけれど、昨日あることに気づいた。生ゴミは仕方ないとして、プラスチックゴミや缶ビン・ペットボトル等の分別ゴミは、キッチンに置いておいても問題ない。匂いがしないから。
それでキッチンのゴミ仕様を少し変えた。これが大成功。キッチンが広くなって、かなり使いやすい。頭を使えばできたことだけれど、何かを変えようとはなかなか思わない。自動的に以前の状態をくり返してしまう。大規模修繕がなかったら、以前のまま何も変えようとしなかっただろう。
そう考えると、強制的な変化は新しい視点に気づかせてもらえるチャンスかもしれない。無理やり変えられることで不安になって、不満や不平を言っても無駄な時間を費やすだけ。むしろ受け入れることで、以前より効率よく過ごせることもある。
必要は発明の母、という。そうなると、強制は変化の母、かもねwww
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