安楽死の是非について
京都のALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の女性から依頼を受け、薬物を投与して死なせたとして、先日二人の医師が逮捕された。容疑は嘱託殺人。京都地検は今日、この二人の医師を起訴した。
これから裁判が行われることになり、罪状認否を含めて起訴された二人の言葉が注目されることになるだろう。この件に関しては、ボクも安楽死として外国で認められている基準に満たないものだと思う。つまり殺人罪を適用されても仕方ないと感じている。
ただボク個人としては、安楽死に反対の立場ではない。いまはオランダやアメリカのオレゴン州等でしか認められていないけれど、安楽死について法制化するべきだと思っている。安楽死には致死量の薬剤等を投与する積極的安楽死と、生命維持装置を取り外すような消極的安楽死がある。
だけど曖昧なままで放置していると、今回のような事件が起きてしまう。だからこそ明確な線引きが必要となる。ただし、そう簡単なものじゃない。
ボクはある本を読んで、安楽死についてどうするべきなのか、答えを出せなくなってしまった。
『死ぬ権利はあるか 安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値』有馬斉 著という本。
著者は大学准教授で、この分野についてずっと研究を続けてこられた。だから文章は論文形式でかつ長文なので、かなり読みにくいけれど、内容の奥深さに圧倒された。そしていままでにボクが持つことのなかった、まったく新しい視点を与えてもらえた。
基本的に著者は安楽死に対して反対の立場をとられている。それゆえ賛成派の意見を紹介しつつ、なぜ反対なのかについて丁寧に反論されていた。そのいくつかにはボクも納得するしかなく、いままでの賛成の立場が微妙になっている。
ただし一般的な論点と、ボクの基本的な考えとのあいだには、決定的に相入れないものがある。それは命の『終わり』をどこに置くか、ということ。
当然ながら一般的な安楽死の議論は、医師によって死亡宣告される時点を命の『終わり』としている。それゆえそこへ至る過程として、安楽死の是非が議論されることになる。ボクもその『終わり』から見れば、著者の意見に賛同する部分が多い。
だけどボクの視点からすると、死亡宣告が命の『終わり』ではない。どうしてもそれ以降の世界、あるいは生まれてくる以前の世界を、判断の基準から外すことができない。平均寿命としての80年間だけでなく、その前後に無限に広がる世界を見てしまう。
だから安楽死や自殺という行為に対して、全面的に否定できないボクが存在している。もちろん無条件に自殺や安楽死を肯定しているわけじゃない。むしろボクが考えている基準はきびしい。どちらかといえば、生きられる限りは何があっても生きるべきだと考えている。そのうえでの安楽死であり自殺ということ。
そのことについてはブログのような場所で書くことではないので、ここまでにしておこう。とりあえずこの本はとてもオススメ。反対派の人も賛成派の人も、新しい視点を提供してもらえるはず。そして自分の意見について、さらに深く考えを進めていくための指標になる本だと思う。とてもいい経験をさせてもらった。
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