思い出は『今』起きている
今日、とんでもない大失敗をやらかした。午前中に強い雨の隙間をぬって買い物へ行った。兵庫県知事選挙の期日前投票も済ませた。区役所に行ったころは前が見えないほどの大雨だったけれど、買い物を終えて自宅に戻るころに雨はほとんどやんでいた。
それで油断したのかな? 阪急六甲駅の陸橋を歩いているとき、うっかり足を滑らしてバランスを崩した。尻餅をつくことはなかったけれど、レジ袋の下部が地面に激突。底には卵が入ってたんだよねぇ(涙、涙、涙)
買った卵の半分を割ってしまった。ということで今夜の夕食は、特大の卵焼きに決定。とりあえず一個も無駄なく食べられるのでよしとするしかない。こんなとき思うのが、時間を巻き戻すことができないかということ。
足を滑らした少し前に戻ってやり直せたら、もっと気持ちよく帰ることができるのに。だけどそんなことは無理に決まっている。起きたことは変えられないから、その現実を受け入れて反省するしかない。
こんな過去の後悔というのは、数え上げたらキリがない。そして不思議なことに、人間って歳をとってくると、そんな辛かったり恥ずかしい過去のことを思い出していることがある。時間の無駄だと思いつつも、ぼんやりと子供時代や若いときのことを思い出していたりする。
だけど同時に感じることがある。思い出というものは『過去』のことだという認識があるだけ。だけど思い出している瞬間というのは『今』でしかない。20年前の思い出だからといって、自分の脳は20年前にタイムトリップしているわけじゃない。常に『今』にいるしかない。
つまり思い出は『今』起きている、ということ。
過去だと感じるのは、記憶がそう思わせているだけ。例えば小学生のときに大失敗をやらかしたとしよう。そして同時に今日の卵事件を思い出してみよう。
その感覚にちがいはあるだろうか? 今日のことより、小学生時代の思い出は50年分古いだろうか?
そのどちらも思い出としてふり返ったとき、時間が経過しているという思い込みがあるだけで、どちらも記憶をたどる感覚としては同じ。つまり思い出は『今』起きているということ。過去の場合は記憶が薄れている分、適当に脚色されている程度のこと。
10歳の子供も、80歳の老人も、思い出をふり返っているときは、『今』という瞬間なしには経験できない。究極的には時間は『今』しか存在しないというのはそういうこと。ただこの両者には大きなちがいがある。
10歳の子供は思い出す材料が10年分しかない。一方80歳の老人は捏造された記憶も含めて大量にある。だから歳をとると、つい昔のことを『今』になって追体験してしまうのだろう。10歳の子供は記憶が少ない分、今の自分、あるいは未来の自分に意識を向けやすい。
ボクの世代になると、このことを意識しておくべきだと思う。過去のことで頭をいっぱいにしていると、今日のことが入る余地がなくなってしまう。つまり現在の自分の人生に正面から向き合うことができなくなってしまう。
思い出は過去にあるのではなく、『今』常に起きている。ボクにとっては午前中の卵事件も、すでに思い出となっている。だったら過去の思い出で頭を満杯にしていないで、今この瞬間、目の前に見えていることに集中するべきでは。
その目の前のことでさえ、数分後には思い出となっている。いつしか自分の人生の全てが思い出となる日が来るだろう。そのときのためにも、今この瞬間、目の前にある思い出を大切にしたいと思う。過去の思い出よりも、これから作る思い出に愛を注ぐべきだと思う。
つまり何が言いたいかというと、早く今日の卵事件を忘れたいwww
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