事実との差異に見える物語性
映画に関して、事実に基づいた作品を数え上げたらキリがない。事実は小説よりも奇なりという言葉にあるように、映画化されるような実話は希少性を見せつけつつも、優れた共感性を有しているからだろう。
ところが実際に映画を観ていると、当然ながら事実との差異が認められる。それはプライバシーの問題ということもあるし、犯罪に関する作品だと被害者への配慮もあったりするからだろう。
だけどほとんどは別の理由によって事実が変更される。それは映画というコンテンツの宿命である物語性の追求という理由。より面白くするため、よりドラマとしての価値を高めるため、事実が脚色されている。
クリエイターはその差異を学ぶことで、物語を作ることに生かせると思う。そんな見本となるような映画を紹介しよう。
2021年 映画#109
『シャイン』という1996年のオーストラリア映画。主演のジェフリー・ラッシュを含め、アカデミー賞等の映画賞を総なめした名作。ボクも大好きな映画のひとつで、何度もこの映画を観ている。久しぶりに観直したけれど、やはり感動の涙なしにラストシーンを観ることはできない。
ストーリーはシンプル。メルボルン生まれのデイヴィッドはピアノの神童と称される腕前。父の指導で天性の才能を開花させ、コンテストで優勝する。それでアメリカ留学の招待を受けるけれども、暴君のような父親によってそのチャンスを潰されてしまう。
父は息子を溺愛するあまり、自分の元から去ることを認めなかった。デイヴィッドは自分の作品であり、誰よりも息子を愛しているのは自分だと信じていたから。そのときは諦めるけれど、デイヴィッドは数年後にイギリスの王立音楽院からの招待を受ける。
父と大喧嘩することで、勘当される覚悟でデイヴィッドはイギリスへ向かう。そこでも素晴らしい才能を開花させ、コンテストで最大の賛辞を受ける。でもピアノの世界にのめり込みすぎた彼は、やがて精神に破綻をきたしてしまう。
その背景にあるのは父を裏切ったという罪悪感。「お前は冷たいやつだ」という父の言葉が彼を苦しめていた。父への愛と、ピアノに対するとてつもない情熱との葛藤に苦しんだ末、彼は精神病院に収容されることになる。
やがてある出来事によって病院を出たデイヴィッドは、バーでピアノを弾く仕事を得る。それをきっかけに生涯の伴侶である妻のジリアンと出会い、彼女の献身的な介護によって再び大きなステージに立つという物語。
青年時代のデイヴィッドを演じたノア・テイラーも素晴らしいけれど、壮年となったデイヴィッドを演じたジェフリー・ラッシュの演技は言葉にならないほどすごい。早口でセリフをくり返すことでデイヴィッドの異常な精神が表現されつつも、豊な感性とユーモアがそこに重ね合わされている。
ボクのイメージにあるジェフリー・ラッシュといえば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のバルボッサ。だけどこの映画の彼は、まさにデイヴィッド以外の誰でもない。彼の演技を見るだけでも価値のある作品だと思う。
さて、事実との差異を見ておこう。デイヴィッドの妹のマーガレットは、この映画に対して抗議の声明を発表している。まず父は映画のような暴君ではなく、長男のデイヴィッドとの関係はとても良好だった。さらに彼の精神の病気はピアノによるものではなく、遺伝的なものだと言明している。デイヴィッドの叔母も同じ病気だった。
だけど映画としては、父との葛藤をテーマに持ってきたい。それゆえ父を見放した罪悪感によって、ピアノを選んだ彼が天罰を受けたという構図にしたかったんだと思う。たしかに物語としてはそこにフォーカスすることで、全体としてエンタメ度が高くなっていると思う。
要するに事実に基づく作品であっても、映画というのはかなり盛られているということ。こうなると事実が知りたくなる。調べてみるとデイヴィッドの妻が夫に関する手記を出版している。ということですぐに図書館で予約した。デイヴィッドという人物に興味があるので、映画とちがう彼の真の姿を知るのを楽しみにしている。
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