この恋に感動できる自分でありたい
欧米人に比べて、日本人は自己主張が控えめだといわれることが多い。グローバルな社会となってきたので、昨今ではそうでもないという意見もあるだろう。
だけど日本人の精神的な支柱として、いい意味で自分を抑えるという感覚は健在だと思っている。そんな精神は、日本の古典芸能によって表現されている。
その代表が能。能という芸術は、シンボル化された所作に人間の情念が込められている。ボクが働いていたことのある祇園甲部の芸舞妓さんの日本舞踊も同じ。井上流という舞踊は、最小限の表現で舞にまつわる物語を伝えようとしている。
そんな奥ゆかしさ、あるいは侘び寂びを感受できることは大切だと思う。ネット社会に浸っていると、ついそうした世界から縁遠くなってしまうように感じるから。
江戸時代の男女にまつわる恋愛映画を観た。主人公の二人が本当に素敵で、こんな恋に感動できる自分でありたいと思った作品だった。
2021年 映画#146
『山桜』という2008年の日本映画。写真の田中麗奈さんと東山紀之さんが主演した作品。
冒頭のシーンで田中麗奈さん演じる野江は、叔母の墓参りの帰りに素敵な山桜を見つける。少し手折っていこうと思ったけれど、どうしても届かない。そのときある男性が手を貸してくれた。東山紀之さん演じる手塚弥一郎という武士で、野江は過去に彼と縁談があったことを思い出した、
弥一郎は剣の達人で、藩の師範役でもある。だけど縁談があったとき、剣術の達人は怖いという先入観で断ってしまった。その後に野江は嫁いだけれど、夫は早くに病死。実家に出戻りになったあと、次の嫁ぎ先はまるで女中扱いされるようなひどい家だった。
なのに偶然会った弥一郎に「いまは幸せですか」と訊かれて、つい「はい」と答えてしまった。本当は生きるのが辛いほどの状況なのに。そして弥一郎が優しくて素敵な男性だったことを知って、野江は初めて恋心を抱いた。
野江の夫と舅は、金儲けしか頭にない男たち。出戻りの野江をもらってやった、というのが口癖で、彼女に対して冷たい態度を取り続けた。そして野江の夫は、その当時藩の重臣である諏訪にすり寄っていた。
ところがこの諏訪はいわゆる悪人。農民を苦しめ、自分に反抗する人間をことごとく追い詰めていた。このままでは諏訪のせいで農民たちは生きていけない。そんなとき義憤に駆られたのが弥一郎だった。
剣の達人である弥一郎は諏訪を斬り、そのまま藩の目付けに出頭する。切腹を覚悟していた。弥一郎の身を案じる野江は、彼を揶揄する夫の言葉に激怒。それがきっかけとなって離縁されてしまう。
やがて野江は弥一郎のことを知る。ずっと独身でいたのは野江に心底惚れていたから。だから嫁を取らず、母と二人で暮らしていた。そんな弥一郎の想いを知り、野江も彼に嫁ぎたいと願う。だけど弥一郎は囚われの身となってしまった。
だけど藩は彼に処分を下さない。なぜなら諏訪の死によって多くの農民が救われたから。それで江戸から戻る藩主を待って、藩主によって処分を下されることになった。彼の助命を請う声が農民だけでなく武士たちからも聞こえてきたからだろう。
ラストは弥一郎の母と一緒に過ごす野江のシーンで終わる。そして牢にいる弥一郎の姿が重なる。そこに太陽の光が差し込み、美しい山桜の花びらが散る場面となる。おそらく弥一郎は許されるということを象徴しているんだろうね、
とにかく江戸時代のことだから、互いの気持ちは表面に出さない。だけど二人が思い合っているのがわかる。そして野江は弥一郎の帰りをひたすら待つ。それだけのシーンなのに、とても心が熱くなるラストシーンだった。こんな恋愛映画に感動できるのは、きっと日本人だけなのかもしれないなぁ。
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