報われない努力に思うこと
北京での冬季五輪で印象に残っているのは、オリンピック3連覇を目指した羽生結弦選手の言葉。怪我やリンクでの不運が重なり、表彰台に上がることができなかった。そしてこう述べている。
「そうですねえ……努力って報われないなあって思いました。僕はオリンピックで金メダルを取るために、そして4回転半を決めきるための努力を、正しい努力をしてこれたと思ってます」
平昌五輪のあと、羽生選手が続けてきた『努力』は並大抵なものではないはず。おそらく壮絶な努力だろう。そんな途方もない努力が報われないと感じたときの彼の気持ちは、ボクたちの想像をはるかに超越していると思う。
だけどその悔しさは想像できる。おそらく何かに挑戦している人は、個人差はあっても報われない努力を実感しているはず。その努力が他人と比較してどうという問題じゃない。本人にとって全力を尽くしていることは、誰がなんと言っても立派な努力なんだから。
シビアな言い方をすれば、努力は報われないことのほうが多い。何かに挑戦すると言うことは、当然ながら実現したい目標がある。だからそこに到達できない限り、どれだけ頑張っても努力は報われないと感じることになる。
その理由はさまざま。運がないこともある。自分が努力だと思っていることが必要なレベルに達していない、あるいは努力の方向性がまちがっている場合もあるだろう。
ところが努力しないと結果は出ない。それは絶対的な前提だろう。だけど費やした努力と結果には、必ずしも相関関係があるわけじゃない。羽生選手のような人でさえそうなんだから。
そうなってくると、挑戦をやめてしまう人が多い。心が折れ続けると、目標に向けた努力が苦痛でしかなくなってくるから。ボクもそうして何度もくじけそうになってきた。いまだに心が折れることも多い。だけど書くことをコツコツと続けている。
それは心が折れながらも、『報われる』ことの方向性を広げてきたから。目指した目標が達成できないとき、努力が報われなかったと感じる。それはその目標だけを『報われる』ことの対象にしているから。
ボクは書くことそのものも、『報われる』ことの対象にしている。小説を書くのが好きだから、文章を書くのが好きだから、それができることにわずかながらも『報われる』と感じることができる。そうなると、努力がまったく無駄ではないと思える。
つまり自分が挑戦していることを、徹底的に好きになること。努力が報われなくても前に進むのは、それしかないと思う。それはどんな仕事にも言えるはず。その仕事自体が好きだと感じられるのなら、心のどこかで必ず『報われている』はず。自分の好きなことが何かを知っていて、それをやれているんだからね。
努力は報われるとは限らない。でも報われることの対象を広げていけば、前に進んでいく推進力に変換できるはず。それはきっと、本当の目標に到達するための近道なんだと思う。
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