「すばらしい」とは何か?
ほめ言葉というのは、基本的に主観に基づいたものが多い。「美味しい」、「心地いい」、「楽しい」、「きれい」というような言葉は、対象に関する状態を表しているように見えるだけで、実際は発言者の主観を述べているに過ぎない。
客観的な状態を説明している言葉ではないので、同じシチュエーションでも人によってちがった感想になる場合がある。なのにボクたちは他人の評価を見聞きした場合、『その人にとって』という前置詞がついていることを忘れてしまう。そして他人の感想をそのまま受け入れてしまうことが多い。
そんなミスリードに気づかせてもらえる小説を読んだ。それは『すばらしい』という主観語について語られた作品だった。
2022年 読書#46
『すばらしい世界』オルダス・ハクスリー著という小説。いわゆるディストピア小説という、反理想郷を描いた作品。SF小説に関する必読的な名作だと聞いて、初めて読んでみた。そう称賛されるのがわかる、とても魅力的な物語だった。
物語の冒頭で舞台となっている世界が語られる。『すばらしい世界』の『すばらしさ』が説明されている。これがなかなかユニークで面白い。
人間は女性の胎内から生まれない。すべての受精卵が瓶で培養される。ただしその段階で選別されていて、培養中の酸素を制御することで、知能の差、体格の差がある子供を製造する。受精卵の段階から運命が決まっている。
下層民はひとつの受精卵から数千人の同じDNAを持つ人間が製造される。単純作業労働者として使役するため。身分が上がってくると、受精卵ごとに人間としての人生をスタートする。胎児や乳児の段階から常に刷り込みが実施され洗脳されている。どんな身分であっても、その環境こそが『すばらしい』と思わせるため。
だから下層民が上級階級をうらやむことがない。自分がもっとも幸せだと思い込んでいるから。幼児から成人しても常に睡眠学習が義務づけられていて、洗脳がさらに強化されている。完璧な予防接種が実施されていて、ほとんど病気はない。60歳になると安楽死させてもらえる。
家族というものは存在しない。誰もが皆のもの、ということが刷り込まれている。だから個人的な男女の恋愛は存在しない。フリーセックスが普通で、日替わりで誰とでも関係を持つ。特定の異性を所有するという概念がないので、見知っている異性をすべて共有している状態。
結婚は否定され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」であるということ。
ここで登場するのが、胎児時代のミスで実際の階級とはちがう肉体を持って生まれてしまったバーナードという男性。レーニナという女性が好きだけれど、当然ながら彼女は誰とでも寝る。どうしてもそのことに耐えられない。特定の人間と深い関係を持ちたいという、この世界では『まちがった』発想を持っている。
そしてこの異分子のバーナードによって、蛮人保存地区のジョンという少年がロンドンの文明社会に連れてこられる。ジョンの母親は文明社会の人間だったけれど、事故に遭って保存地区に取り残された。そしてそこでジョンを産んでしまう。
その野人のジョンは、文明社会においてボクたちと同じ感覚を持っている唯一の人間。リンダという母親を持ち、個人のプライバシーを尊重し、好きになったレーニナが心の交流なしに肉体関係を求めてくることに耐えられなかった。
『すばらしい』はずなのに、この世界を『すばらしい」と思えない異分子が引き起こす物語。読者は彼らの動きを通じて、『すばらしい』という言葉が主観的なものであることを痛感させられる。
少しとっつきにくい印象だけれど、この小説が1932年に執筆されたことに驚く。未来世界の描写にまったく違和感がなかった。SF小説ファンにとって必読の書と言われているのがよくわかった。
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