もったいない映画鑑賞法
2日に1度だけれど、ボクは必ず映画を観ている。小説を書くためのインプットとして重視しているから。それらがいい作品であっても駄作であっても、物語として構成されているものを最初から最後まで観ることによって学ぶことは多い。
だからある意味仕事的な感覚で映画を観ているけれど、それは理由の一部分でしかない。映画を観る最大の理由は、自分の人生では経験できないことを疑似体験したいから。たかだか100年足らずの人生で経験できることは限られている。
それゆえ映画や小説に数多く触れることで、フィクションであっても人生経験を豊かにしてくれる。その経験によって自分の人生観を見直したり、新たな気づきを得ることができる。一度の人生でより多くの体験を積み重ねたいのなら、映画や小説という媒体ほど最適なものはないと思う。
ところが最近増えているのが、映画を早送りで観る人たち。その是非について議論するつもりはない。そんなもの個人の勝手だから。だけど老婆心ながら、もったいない映画鑑賞法だと思う。ある記事を読んで、さらにその意を強くした。
「映画を早送りで観る人」が損をする、作品を味わえない以前の不都合な真実
なかなか面白い記事で、著者の主張に共感した。映画を早送りで観る人の理由は様々だろう。でも共通しているのは時間が惜しいということ。早送りで観ることでわかるのはストーリーだけ。俳優たちの演技の間やセリフの言い回し、編集の巧妙さや音楽の素晴らしさを知ることは難しい。
リンク先の記事によると、早回しで映画を観る人にはいくつかパターンがある。とりあえず早回しでストーリーをチェックして、面白そうだったら最初から観るというパターン。このタイプの人は、ハズレ作品に対して時間を割くことを避けたいのだろう。
もうひとつは他人との話題に遅れを取らないため。世間で話題の作品が会話に登場したとき、他人との会話をスムーズにするために内容だけを知っておくという目的で早送りする。小説でもそうしたまとめサイトがあって、それを読んでおけば作品について知ったかぶりをすることはできる。
そんな人たちの気持ちがわからないわけではない。だから否定や非難をするつもりは毛頭ない。ただもったいないなぁと思うだけ。
映画のストーリーなんて、一度しか観ない作品なら忘れてしまうことが多い。それでも『何かしら』心に残っている作品というものがある。その『何かしら』というものは作品を通してしか得ることができない。早送りやまとめサイトでは表現できないから。
そしてその『何かしら』が自分の人生に大きく影響を及ぼすことがある。例えば駄作を観て失敗したという経験でさえ、人生における出来事を暗示していたりする。物語の始まりから完結まで立ち会うということによって、目に見えない『何かしら』を受け取ることができる。ボクはそう思っている。
世の中に存在する映画や小説は、一人の人間がすべてを体験できる量を遥かに超越している。つまり作品との出会いは一期一会だということ。同じく世界には大勢の人がいて、一人の人間が交流できる人数を遥かに超越している。だから誰かと出会えたということは、ある種の奇跡のようなもの。
映画を早送りしている人は、人間関係も早送りになっていないだろうか? 余計なお世話だろうけれど、もったいないなぁと思ってしまう。
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