学習するということは
私は市井の一学習者である。
私淑する故・三石巌氏は「三石巌 全業績」の序文冒頭に、この一文を入れていた。
「市井の一学習者」。この言葉に、専門家には負けまいとする三石氏の気概を感じることができる。今のように簡単にデータベースから情報を取り出せる時代とは違い、当時は文献一つ取り寄せるのも手間だったろう。それでも情報を入手し、学習を続け、「ビタミンカスケード」や「パーフェクトコーディング」などの理論を創出して後世に伝えていった。既に1970年代後半には活性酸素、1990年代前半にはプロスタグランジンについて書かれており、その先見の明には驚かされる。
当時の新聞には、医者が健康相談を行う紙面があった。疾患を抱える患者の悩みに対して医者が解決策を紙面上で提示しているのであるが、まぁ大した回答はしていない。その大した内容ではないQ&Aを提示した上で、「私ならこう答える」として、三石氏なりの回答を並べて行った著作がある。それはまさに快刀乱麻を断つもので、実際に治った症例と同時にその理論的裏付けが書かれてあり、もし三石氏が回答者だったら、かなり多くの患者を救うことができたのではないかと思わせる内容である。
現代は情報があふれ、専門家といえどもすべてを網羅することはできない。しかしそれでも勉強は続けるべきだ。「難しい言葉は使わずに、わかりやすく書きました」なんてことを書く人は、その多くが実は「難しいこと」がわかっていないだけである。わかっていないのに、わかっているフリをする必要があるため、そう書いているのだ。増え続ける情報に耐え続けることができない人は、いつしか学習することを諦め、専門知識やエビデンスをバカにするようになり、勝手な憶測やオカルトに走っていく。
もし周りに「専門家」を自称する人がいたら、その分野における難しい言葉について、いくつか訊いてみると良い。言葉を濁してちゃんと答えられないようであれば、それは「学習を諦めた人」だ。