世界最高の小説は
「世界最高の小説はなにか」と訊かれたら、「カラマーゾフの兄弟」と答える文学者はとても多いだろう。若いころに一度だけ読んだきりということもあって、久しぶりに新訳のほうで読み返してみた。
※ただしこれから初めて読むという方には、原卓也訳の方を勧める。
実はこの小説、本来は二部構成になるはずだった。しかし一部を書き上げたところで、ドストエフスキーは病に倒れてしまったのである。
父殺しがテーマの一つであり、第一部ではフョードルとゾシマ長老の「二人の父」が殺される。第二部ではアリョーシャによって皇帝(≒父)が殺されるのではないかというのが一般的な見解だが、個人的には「父なる神」を殺して欲しかったと思う。つまり、なんらかの原因によって信仰を喪うわけだ。
さて、この長大な小説の中でも、特に圧巻なのが「大審問官」の章である。キリストとサタンとの有名なやり取りを基にした叙事詩だ。
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「神の子なら、この石をパンに変えてみよ」
「人はパンのみにて生くるものにあらず」
「神の子なら、ここから飛び降りてみよ」
「神を試してはならない」
「いっさいの権力と繁栄をお前に与えよう」
「サタンよ、退け。ただ神に仕えるのみである」
このキリストの返答に対し、イワンは大審問官の口を借りて反駁していく。人間社会にとって、自由ほど耐え難いものはない。人間はひざまずくべき相手を常に求めている。自由と、地上にじゅうぶんに行きわたるパンとは両立できないのだ。
はたして人間の本性は、「奇跡」をしりぞけるように創られているのだろうか?精神の問題にぶつかった瞬間にも、ただ心の命じるままに、自由な決断ができるように創られているのか?
お前が悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、人間がこの地上で探し求めているすべてを埋め合わせられたではないか。全世界的な統合に対する欲求こそ、人間にとって最後の苦しみというべきものだからだ。
アリョーシャはこの叙事詩を聴かされ、イワンにこういう。「兄さんは神を信じていないんです!」
それを聴いたイワンは、叙事詩をこう締めくくる。「老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから、何かいって欲しかった。しかし彼は無言のまま老審問官に近づき、静かにキスをするんだ。これが答えのすべてだった。老人はキスの余韻が心に熱く燃えているが、今までの信念を変えることはない」
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この審問官はイワンの心の声だと言っていいだろう。しかしイワンは、本当は神を信じたかったのではないか。キスとはすなわち、神による赦しだ。赦されたい自分と、それを認めるわけにはいかない自分。その二人がイワンの中に混在していて、だからアリョーシャは「あなたじゃない」と言ったのではないか。
ゾシマ長老はフョードルとの会話で、こんなことを言っている。
「大事なのは、自分に嘘をつかないことです。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間とというのは、自分の中にも周りの中にも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。誰も敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちを紛らわそうと、情欲や下品な快楽にふけって、ついには犬畜生にも等しい悪徳に身を落とすことになるのです」
さて、大審問官の章は確かに白眉であるが、私が一番好きなのはこの小説のフィナーレである。アリョーシャが子供たちに向かって、こう話す。
「何かよい思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしてきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。
自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです。
永遠にあの子のことを忘れないようにしましょう! あの子の、消えることのないすばらしい記憶が、これからのち、永遠にぼくらの心のなかに生き続けますように!
そう、かわいい子どもたち、かわいい友人たち、どうか人生を恐れないで! なにか良いことや、正しいことをしたとき、人生ってほんとうにすばらしいって、思えるんです!
永遠に、死ぬまで、こうして手を取り合って生きていきましょう。カラマーゾフ万歳!」
なんと清らかな賛歌であろうか。まったくもって美しい。ロシア文学(音楽もそうだが)は息が長く冗長でありながら、フィナーレでは見事に盛り上がり、読者を感動させる。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」も、そうだ。私はアンナの恋がどうなったかよりも、物語の最後でレーヴィンが独白するところに一番感動する。「百姓の言った言葉は、彼の心に、電気の火花のような作用を起こして、これまで一時も彼をはなれたことのない、断片的な地のない、ちりぢりばらばらのおびただしい考えを、突如として変形させ、ひとつのものに結合した。」
ここでレーヴィンが到達する考えは、ウィトゲンシュタインに通じるものがある。「語りえぬものに対しては、沈黙しなければならない」
私たちはなんであるのか。なんのために生きているのか。精神の暗闇に差し込む光は、いったいなんであろうか。
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