知らぬが仏?
私のクライアントの一人にフルブライト留学で日本に留学し、レーガン大統領が来日したときに通訳を含め、いろいろ世話をしたという経験のある方がいる。いつもパーソナルのときには有意義な話をさせていただいているのだが、ともあれ、仮にCさんと呼ぼう。
Cさんは現在、某大学で文化人類学を指導されているのだが、「アメリカでは創造論を信じている人が多いんですよね」と私が話すと、悲しい顔をして、「私もダーウィンを学校で学ぶことができなかった」という。
ではぜひ、ドーキンスの「盲目の時計職人」をお読みください。と勧めたところ、早速読んでくれたようで、いたく感謝された。進化論に興味のある方はぜひ。
で、先日はイルカ漁などの話から、如何に人間が傲慢かという内容に発展していったのだが、そこで「人間原理」について紹介したところ、パーソナル中なのに大盛り上がりとなってしまった。
私たち人間が存在する確率というのは奇跡に奇跡を何乗にも重ねたようなもので、宇宙の寿命を考えても、まずありえない。では、原因から結果(人間存在)を考えるのではなく、結果から原因を考えてはどうか。
つまり、人間が存在するために、この宇宙はつくられたのだ。そう考えることが可能となる。
さらに言えば、人間が「観測」するから、事象も存在し、そこに意味が生じる。これを言い換えると、「月が存在していて、私たちはそれを観ている」と考えるのが普通だけど、実はそうではなく、「私たちが観ているからこそ、そこに月が存在することができる」ということだ。
もちろん、私たちが見ていようが見ていまいが、森で木は倒れているし、どこかで台風が発生しているかもしれないし、ベテルギウスは既に爆発しているかもしれない。
しかし、それらは私たちが「観測することによって、はじめて意味を成す」。観測していなければ、認識していなければ、事実はないのと同等だ。そういう考え方が存在するのであり、実はあのホーキングもそういう立場なのである。
なんて話をパーソナル中にしていると、あっという間に時間が経ってしまう。とても楽しい時間の一つだ。