五月十七日…原田左之助命日
槍の名手として数々の戦い(芹沢一派粛清、禁門の変、三条制札事件、池田屋事件、油小路の変などなど)において新選組の活躍に貢献しましたが、最期は彰義隊として上野戦争に殉じました。
久城は、斎藤さん(斎藤一)の次に左之さんが好きなのですけど、私が思う彼の魅力は何と言ってもこの二つ。熱さ(短気とも言う)と、妻子想いなところ。
去年の命日にも語った気がしますが、真面目で冷静でどこまでも感情を殺し理性的に行動する斎藤さんとは対照的な、熱さ、男気、良い意味での人間臭さ…彼のそんなところがたまらなく好きです。
隊士としては珍しく、町娘と結婚し子をもうけた彼は、非番の日にはよく子供を抱いて屯所に来ては自慢していたとか。
死と隣り合わせながらもそんな幸せな日々を送る家族にも、容赦なき時代の波が…
戊辰戦争の幕開け、二人目の子を身籠る妻と愛する長男に別れの言葉と当面のお金を残し、鳥羽伏見の戦いへと向かった原田は、間もなく生まれた子を見ることも、再び戻ることもないまま29という若さでこの世を去りました。
今日は、そんな原田左之助・彰義隊のお墓詣りと、ゆかりの地をいくつか巡ってまいりました。
まずは、上野戦争の舞台となった上野公園・東叡山寛永寺。
かつては、現在の上野公園ほぼ全域が寛永寺境内で、当時本堂は現在の東京国立博物館のあたりにあったそうです。彰義隊が集結したのがそのあたり。
そして、最も激しい攻防戦が繰り広げられたのが、正面入り口の先に構える黒門でした。
激戦を物語る弾痕などが無数に残ります。
敗走し、累々と放置された彰義隊士の遺体を見つけ葬ったのが円通寺の和尚さんだった縁から、黒門は円通寺に移築され、その歴史を今に伝えています。
5月15日。上野戦争は、このたった半日で、彰義隊の壊滅という形で幕を閉じます。負傷した原田は神保山城守屋敷へ運び込まれ、そのまま二日後の17日に息を引き取ったそうです。
次はその神保山城守邸跡へ。
と言っても、石碑や説明板も何もないのですが、現在の江東区森下三丁目の一画ということで、それらしい辺りをうろうろ…
休むことなく大地を打つ雨が、静かに空へと還った戦士の魂を偲ばせて、何とも言えない気分でした。どうか安らかに。
原田左之助個人の墓がどこにあるのかは不明で…彰義隊の合葬としてのお墓は上野公園と円通寺にあります。ひっそり手を合わせてまいりました。
上野公園の方のお墓にある彰義隊奮戦之図。とても印象的です。
実は、今回の史蹟巡りからのライブ会場入りの行程で、他にもいくつか新選組ゆかりの地に寄ることができたので、それもまた後日紹介させていただきますぞ!
お楽しみにー!
ということで、最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございましたっ