気持ち
ブログを書くのは久々になりますね。
本当はもっと沢山の言葉で、沢山の機会を持って自分の気持ちや、お仕事の事などを書いていくべきだとも分かっているのですが、ついつい長文になってしまい、また、気持ちが溢れすぎた文面になってしまい、恥ずかしくて、書いたはいいものの、保存するだけ、と言う日々が重なってしまいました。ごめんなさい。
そんな今日は、少し、気持ちの話を。
突然ではありますが、ここ最近、「死」とは、と考える機会が数度ありました。
同じように「生」とは、と考えることも。
もちろん、大それた事も言えた人間では無いですし、答えが出るような問いでも無い事は十住承知で。
きっと、まとまりの無い文面になってしまうかとは思いますが、少しだけお付き合い頂けたら嬉しいです。
皆様は、自分の身近に「死」を経験した事はありますでしょうか。生きていれば、少なからずその場面に出会う事があると思います。
祖父母、両親、兄弟、姉妹、恋人、友人、知人。自分と言う人間の周りには数え切れない程の人が居ます。これまで関わった人、これから関わる人、無限のように感じる人との出会い、関わり。だけども、その全ての人達と、無限のように感じる出会いにも、いつか必ず別れがきます。
人は生きている限り、いつか死ぬ時がきます。必ずです。それは自分も同じで。
では、何故生きるのか。これも正直な話、難しすぎて分かりません。
綺麗事を言ってしまえばいくらでも理由なんて物は見つかりそうですが、それは他人が決める事では無いし、詰まる所、そんなものは蚊帳の外からのエゴでしか無い。
と、言っている僕の言葉だって、これは自分自身が自分に対して発しているだけで、人に何かを与えられる訳ではない。堂々巡り。
だからこれはあくまでも僕の一個人としての気持ちの話だけど。
出来れば僕は自分の周りの人に死んで欲しくない。広い目で見れば、何処かの国の戦争や、何処かの国の飢餓や、数え切れない色んな事で毎分毎秒、誰かが死んでいく。その人達の命も同じだし、価値に大小なんて無いと分かっていても、それでも僕は、僕の目が届く範囲の人達が死ぬのは嫌だ。自分だって嫌だ。死にたく無い。
誰とも別れる事なく、終わりなんて無くて、ずっと一緒に居たい。でも、それは無理なのです。
だからこそ、これまで関わった全ての人が、瞬間が、自分を作ってくれた事だけは忘れちゃいけないんだと思う。
人の命に価値の大小なんて無いけど、もしも、そんなような何かがあるならば、それは生きてきた証なんだと思うのです。生まれてから死ぬまで、きっと色んな人に出会って、色んな影響を与え合う。自分が死ぬ時が来たら、その生きてきた証は出会った人達すべてに遺る物なんだと思う。今この瞬間、こうして文面を読んでくれている「あなた」の中にも僕の命の証が遺って、「あなた」の出会う全ての人に僕の証が遺る。そんな風にして繋いでいく意志が、生きた意味であったり、証であって欲しいと願います。
死んだ人の分まで生きるんだ!とか、そんなカッコイイ事は言えないし、できる自信も無い。でも、その人が生きた証は、ちゃんとここにあるよって、それだけは胸を張って言いたい。
僕は役者として、作品を作る人間として、そんな自分が生きた証を、生きてる限り精一杯届けたいし、受け取って欲しい。それは別に難しい事じゃ無くて、エンタメを通して笑ったり、泣いたり、そんな風に一瞬の感情を作りたい、それだけなんです。
その瞬間の気持ちの高揚や感動みたいな物が、大きなうねりの中で、その人の人生の一部になり、その中のほんの少しでいい、僕と言う個人が生きた証の一部として在れたら嬉しいのです。
そして同時に、客席やスクリーンやテレビを通して出会う皆さんの、生きてきた証を、価値を、受け取りたい。
少なからず、今まで出会った方達、応援してくれた方達の生まれた証は、僕の中にあります。だって、出逢わなければ今の僕は居ないですから。
さて、長々と書いてしまいましたが。
つまり僕は強欲なので、まだまだ自分が生きた証を遺して生きていきますよ。
同じだけ、みんなの証を背負おう。行けるところまで行こう。
と、言うのが今の所の結論です。
まだまだこれから。頑張ります!
コメント (0件)
現在、この記事へのコメント/トラックバックは受け付けていません。