その幸せ物語、と遺言した郷土の英雄。
おはようございます。
5月12日。火曜日。
今日の米子地方は雨。のち曇り。最高気温は23℃、最低気温は16℃予想です。
台風6号が奄美大島に接近中です。
台風早いですね。まだ立夏なのに。
私は米子のホテルで目覚めました。
昨日は、100キロ離れた鳥取市まで行き、新聞社訪問。
それから100キロまたクルマで米子まで戻って地元のテレビ局山陰放送の
坂口吉平社長に会ってきました。
坂口吉平さんは、私の高校の5年先輩です。頼れる先輩です。
鳥取は田舎ですが、海と山と水は美しいところです。
さて。
鳥取といえば吉川経家、です。
吉川経家は、戦国時代後半に鳥取城主だった方で、
地元鳥取では、ものすごく尊敬されている郷土の英雄です。
鳥取では、豊臣秀吉や徳川家康、西郷隆盛よりもエライ人だと思われています。
織田信長の命を受けた豊臣秀吉が鳥取城を攻めた時、
毛利に指名されて鳥取城に入り、落城と同時に切腹をして城兵の命を助けた
鳥取の英雄です。
鳥取に入城する際、自らの首桶を持参して覚悟を示したとされています。
「鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、おおよそ4,000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかなかった。これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した若狭国の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった。このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、攻撃を開始した。秀吉は無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」という地獄絵図となった[註 1]。それでも4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。
10月25日早朝、経家は家臣と暇乞いの盃を交わし、具足櫃に腰を掛けて、脇差に紙を中巻きにすると、それを見守る家臣の座中に目をやって、大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言ってから切腹した[1]。介錯は静間某という者が務めた」(Wikipediaより引用)
吉川経家は、私のように地元で育った子供には「吉川経家のように男らしく生きなさい」「潔く生きなさい」と教えられます。鳥取では自分たちの先祖のために戦って命を守ってくれた吉川経家の事を徳として今でも祭っています。
私の行っていた高校は鳥取城跡にありますが、
その高校の前のお堀に吉川経家の銅像が建っています。
彦根では井伊直弼が、福知山では明智光秀が尊敬されているのと同じように
鳥取市では吉川経家が、大切に語り継がれています。
そういう鳥取の人の優しさを私は好きです。
吉川経家は、切腹にあたり子供たちに遺書を残しています。
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候
ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候 かしこ
天正九年十月二十五日 つね家 花押
あちやこ 申し給へ かめしゆ まいる かめ五 とく五」
現代語
「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい」
自らの最期に臨んで
「その幸せ物語、お聞きあるべく候」
と書いた幼い子供たちへの遺言にはいつ読んでも涙を禁じえません。
ご興味のある方は是非調べてみてください。
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