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久高正之空観独占インタビュー掲載中!

少林寺流拳行館の起こり 草案

第七章 琉球王家の手(ティー)―琉球源流・少林寺流拳行館の歩み~と空手
の近代化
一、始祖開祖久高政祺幸利(くだか・まさよし・こうり)拳聖(一九〇七年-一九八
八年)
56代清和天皇の後裔、鎮西八郎為朝の屯営、琉球今帰仁城、城主譜代大名・渡口政敦の後裔久高政尊(久高島地頭を授かる)の二代目の長男として、1907

年4月22日に琉球―沖縄の首里に生まれる。


王家の手、琉球源流―少林寺流拳法唐手の中興の祖、拳聖安里親雲上人の末弟子、拳
聖・喜屋武朝春(徳)師範の直弟子。幼少より武芸を嗜み、久高家代々に秘伝である、


久高島、獅子流棒術と武芸を祖父や、伯父から学んだ。琉球古武術の代表的師範、金
城サンダ師範が、武器による古武術を指導のため、久高家の道場に招かれた。12歳に
して174cm、壮年期には、身長百八十一センチメートル、体重も百キロを超えるという
体格に恵まれ、左足蹴りを特技とし、古典―形―久高の鎮当、久高の公相君、久高の二
十四歩、久高の王冠を得意形として演武・教授され、当時、掛け試しー実践試合で、
敵無し、と謳われた。また、琉球角力(スモウ)の横綱としても活躍した、


王家の手、琉球源流―少林寺流拳法唐手の中興の祖、拳聖安里親雲上人、安里安恒(あ
さと・あんこう)拳聖、一八二七年 ‐ 一九〇三年、一八二八年 – 一九〇六年の説もあり
)。安里拳聖は琉球王国時代から明治にかけての琉球源流―少林寺流拳法唐手家で首里手
の大家の一人。その末弟子に学んだ。後、喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく)拳聖、一八
七〇年-一九四五年)に学んだ。喜屋武家は尚清王(在位一五二六年 ‐一五五五年)の第十王
子、唐名・尚悦敬を元祖とする首里士族であり、朝徳は父の喜屋武朝扶とともに松村宗棍
拳聖から王家の手―琉球源流―少林寺流拳法唐手を学んだ。


1930年、兵営生活を終え、開祖久高拳聖は琉球武術―拳法唐手を代表して、拳聖喜
屋武朝徳師範、桑江良成師範とともに、台北の国際武道祭に招かれ、初めて公式に琉
球源流―少林寺流拳法唐手の特別演武を行った。
その当時、大日本帝国が中国、韓国、台湾と、アジアの国々を配下に治め、植民地化して
いた時期ということもあり、日本から来た武道家が、大変大柄、かつ無礼な態度で、他国
の武道家を見下していた。目に余る言動に、中国、韓国、台湾の武術家たちが、送り出し
ました。不平等な取り扱いに対して、見るに見かね、琉球―沖縄から琉球武術―拳法唐手を
代表して来た開祖久高拳聖が、日本武道を代表した者に無礼を正し、謝るように助言した
ところ、詫びるところか、怒り出し、生意気を言うなと言って、’’それなら勝負しよう’’と
挑戦して来た。それなら仕方がない、挑戦に応じようと、答えて立ち向かおうとしたとこ
ろ拳聖喜屋武朝徳が、’’久高政祺―拳聖は、下がりなさい、この挑戦は私が受ける、
久高拳聖は、立会人として、よく見て置くように、’’と言われて、指示された。拳
聖喜屋武朝徳は静かに立ち上がり、上着を脱ぎ薄い肌着を1枚の姿で、試合場の真ん
中に、スタスタと足早に進んで行った。厳しい声で、無礼で、横暴な日本の武道家に対し
て’、’さあーどこからでも掛かっていらつしゃい’’ と、小さな老人が、肌着姿で堂々と中
央に自然体に立っている。


一方の相手は、それに比べれば、巨人、講道館での試合で、自分よりさらに大きな相手を
、肩車に持ち上げて、’’どこに投げ落としましょうかと言ったほどの、豪傑、ちょうど、そ
の時、創治者嘉納治五郎師範が、観ておられ、’’馬鹿者、なんと無礼な奴だ、下がりなさい
、’’と言われ、酷く叱られたとのこと。その若くして大男、ドタドタと、入って来て、今に

も飛びかからんとしている挑戦者に、’’一喝’’、久高拳聖が、大声で、’’無礼者、

正しく礼をしなさい’’、と叱りつけたところ、挑戦者は、もとより、会場の大半が、びっく
り’’小さなおじいさんが、大きな相手に、捕まり、放り投げられると、心配して、何もでき
ずにいる観衆、同時に、拳聖喜屋武朝徳、落ち着いて、相手に対して、深々と頭を下
げて礼をして、頭を一向にあげない、相手は、慌てて、ピョコンと礼をして、深々と自分
にれいをしている相手に、掴み掛かって、飛び込もうとした瞬間、拳聖喜屋武朝徳、’’
前蹴り’’を、相手の金的を一蹴り、大きな巨人が、すっとんで、倒れた。
静まり返って、シーンとしている会場の皆さんが、一瞬何が起こったのか、理解できず、’’
唖然と’’している。10数秒、苦しんで、なんとか立ち上がり、猛烈に掴み掛かってくると
ころを、拳聖喜屋武朝徳、相手の掴みかかってくる手を、パッと払ったと同時に、’’足
刀横蹴り、一発’’ 今度は、大きな山が、地響きを立てて崩れるように倒れた。


再度、立ち上がり、掛かってくるところ、今度は、拳聖喜屋武朝徳、
自ら相手の懐に飛び込み、相手の口の中に、手を入れて、’’鷲掴み’’ 前足で、相手の内股
を抑え、相手の動きを、完全に制する。数秒経過し、相手の戦意が、失なったと観た瞬間
、久高拳聖が、’’それまで、勝負あり’’と、気合の入った、大きな声で、試合の終
わりを、告げた。


そこで、なぎなたー薙刀の園部師範―(剣道の当代日本一と謳われた沢村  師範と
の対戦で、園部師範が、打ち負かした武道家)から挑戦―試合を申し込まれ、久高
拳聖は、それに応じて、獅子流の棒術で、対戦し、園部師範が、なぎなた薙刀 下段
脛切払いで、強烈に攻撃してきた、久高拳聖は、素早く、棒 下段外払い受けで
、交わし、間髪を入れず、棒水車返しで、園部師範の天頭、棒 上段打ち落としを、
見事に、当てずに、一寸先に、止めて極めて、勝利した、観戦していた人々は、大喝
采、特に、中国武術代表団、が、大喜びした、そして、台湾での武道祭が終わると、
琉球王家の手―琉球源流―少林寺流拳法唐手の琉球武術代表団を、すぐに、中国に招待
した、


その後、台湾及び、中国、日本各地を演武、指導、1932年再び、満州国に招かれ、
満州国の建国を祝う武道祭において、琉球武術を代表して―王家の手、琉球源流―少林
寺流拳法唐手道の演武を行った。そのおりの開祖久高拳聖は、日本国歌「君が代」に
あわせて、琉球源流―少林寺流拳法唐手の形「久高(クダカ)の公相君(クーサンークー)」と
「獅子流の棒術」を披露、演武した。満州国皇帝―溥儀の臨席のもとに行われ、中国の
武術家達の多くが殺された義和団事件以後、中国で初めて公式に王家の手―琉球源流―
少林寺流拳法唐手の演武が行われた。久高拳聖は、この大地の随所で、武術の
あらゆる実践を試み、修練と指導に豊富な経験を積んだ。


その後本土に渡り、講道館で徳三宝の指導を受け、抜群昇段―抜群昇段―四段位を取得し
ている。剣術も学び、剣道各地の警察を、訪れた際、剣道師範の挑戦を受け、次の日に、
対戦上に行くと,いきなり、分厚い板を数枚持って来て、“これが割れるか”と横柄な言動
で云うので、逆に、剣道の師範に、真剣で切つて見せて下さいとと、切り返したら、慌て
ふためいていたが、若くて強そうな剣士が、真剣で、その分厚い板数枚に、切りつけたが
、真剣は、鋭く切り込んだが、切りきることも、割ることもできなかつた、そこで、開祖
久高拳聖は、その真剣で、切ることも割ることも出来なかつた、分厚い板―数枚を、床と
壁に置き、一撃必殺の下段足刀蹴りで、見事真っ二つに割つて見せた、剣道の師範と剣士
たちは、ビックリ驚いて、その分厚い板―数枚は、一日前から”水に
漬けてー浸しておいたので、どんな強力な武人でも、空手家でも割ることが出来ないだろ
うと、たかをくくつて多寡を括つて、恥を掻かせようと悪だくみ~

 

真理の道を追求す

るものは、まず礼儀作法、忠・義・誠・信―武士道の精神を尊重して、常に、すべてに対
して、敬意と感謝を忘れないようにしたいものだと話されていました。も学び、警察の競
技会に出場したこともある。


昭和の初期に沖縄の首里・那覇で、王家の手、琉球源流―少林寺流拳法の修練を積み
~、唐手・柔道道場を開く。その後、中国の大連、張家口などで,王家の手、琉球源流―少
林寺流拳法唐手の道場で、中国武術の師範方を招き、武術交流と研修を行つた、


第二次大戦中は、満州鉄道の社員として駅長なども歴任した。この間、八極拳の達人方
とも親しく交流・研修して、中国武術を学んでいる。


 満州(内モンゴル)において、柔道家の望月稔師範と出会う。望月師範師範は、柔道の
柔道の創始者加納?嘉納治五郎と三船久蔵師範から柔道を学び、合気道の創治者植芝盛平
師範師範から合気道も学んだが、柔道と合気道でともに最高位の十段を授けられたという
稀代の武道家であった。望月師範が,内モンゴルで満州で柔道の指導をしている道場で、
共に稽古をして、久高政祺幸利拳聖 も柔道では、、望月師範が、久高拳聖を、
指導していた、柔道の練習の後で、今度は、―、その際、久高拳聖が、望月師
範に、王家の手、琉球源流―少林寺流拳法唐手の指導を行つた。望月師範は、久高流拳法唐
手を「琉球王家の手(ティー)」と言って称賛した。王家の手―琉球源流―少林寺流拳法唐
手の古典―形、八方当てー久高の公相君を熱心に研修された、
~~~

~~~
 戦後に帰国し、一九四七年に熊本県浜田村で、王家の手、琉球源流―少林寺流唐手道場を
開いた。荒廃した国土と民心に日本本来の精神を取り戻させたいとの一心であつた、開祖
久高拳聖は、古典―形、“八方拳“と呼ばれる、独特の唐手鍛錬法を生み出した、これは、久

 

高の公相君―クーサンークーに、中国の少林拳と八極拳の技法を取り入れたもので、拳―形
と組合術―実践組手の鍛錬に用いた、この修練法は、短期間に、琉球源流―少林寺流拳法唐
手の技法を、柔道の乱取り稽古のような実戦形式で、修得・伝授できるように工夫された
ものであつた、特徴的なものに、唐手の”約束乱取り組手”―“三角飛び組手、初段、”、“内畦
戦の技”、”二十四歩の技”、“五つの技”、”極めの形“、”五極の組合術、―柔法―投げ技、関節
技(逆技)、絞め技、寝技(抑え込み技)、―剛法―打ち技、蹴り技、突き技、当て技、受
け技、―武器法―棒術、剣術、犀術、杖術、などの、相対実践組手の修練法を創作され、組
手の鍛錬法を確立された。更に、唐手道の試合を、実際に当て極める事が出来、怪我の心
配なく、思い切り蹴り、突き、打ち、当てる事が出来、防具の開発をされて、防具組手・
試合の審判・競技規定を定められた、御蔭で、勝負の判定が明確で、誰にでも勝・負けが
解かり易く、楽しく、ダイナミックな、空手道の試合・大会を確立されたことは、空手道
の発展に大きく貢献されました,この事が、正に、空手道の近代化を、大きく発展させら
れました事に、空手道の修行者として、深く、敬意を表し、感謝いたします、合掌~、
~~~、
・試合 ――荒廃した国土と民心に日本本来の精神を取り戻させたいとの一心であった。
彼は八方拳と呼ばれる独特の鍛錬法を生み出した。これは、久高のクーサンクーに中国の
少林拳と八極拳の技法を取り入れたもので、形(かた)と組合術(実践組手)の鍛錬に用
いた。これは短期間に琉球拳法唐手の技を柔道の乱取稽古のような実戦形式で習得・伝授
できるように工夫されたものであった。


 本土にあっても琉球―沖縄とは頻繁に行き来して、交流があり、全沖縄空手道連盟の創設
に参加し、少林流十段の知花朝信師範を初代会長に推挙した。このとき久高政
祺幸利、拳聖は理事・最高技術顧問に就任している。一九五三年には逝去した創治者宮城
長順拳聖の葬儀委員長を務めている。久高
政祺幸利、拳聖は、若い頃、のち後に糸東流を創始した摩文仁賢和拳聖とは、“形の摩
文仁、組手の久高〝と、謳われ、“形の摩文仁、組手の久高“と謳われていた、久高拳
聖は、創始者摩文仁拳聖にも、良く掛け試しについて話され、特に、実践組手に関して指
導された、剛柔流を創始した宮城長順拳聖とも、親しく交流を深めて、一緒に稽古し交流
を深めていたが、特に宮城長順拳聖とは、琉球拳法唐手の組手・試合化のためには、防具
を開発して、安全対策して、組手・試合をするように話し合つていた~、
―常に稽古をし、苦楽を共にした生涯の友人であった。
~~~
昭和の初期、琉球―沖縄、那覇に道場を開設、その後中国、張家口、大連、バクダッ
シュ、などで道場を開設、終戦で帰国後、国土は破壊され、人々の風紀は乱れていた
ため、人々にその本来の精神をとりもどさせるために、武道が優れた手段であると考
え、いちはやく、青少年の健全な育成を目指して、王家の手、琉球源流―少林寺流拳行
館拳法唐手、および、柔術の教育、指導にあたった。1947年6月、九州の熊本県浜田
村の大島公園に「王家の手、琉球源流―少林寺流拳行館空手道場」を開いた。その後東
京に居を移し、最初は、世田谷区下北沢に道場を開設、1955年に本部道場を新宿区の
早稲田地区に移し、現在に至っている。王家の手、琉球源流―少林寺流拳行館空手道本
部道場開きの式典には、儀間真謹拳聖 十段(富名腰義珍師範と柔道の講道館で最初に
琉球拳法唐手の演武を行った)や、牛島龍熊師範(柔道木村正彦師範の師)が参列さ
れた。息子正之、若干14歳が、大人の黒帯、10人掛けを行い、儀間拳聖が、最初の
5人、牛島師範が、後の5人の審判を行い、道場開きに花を咲かせた~、日本本土、

5

都内でも有数の古くからの道場であり、74年の歴史を誇る。
開祖久高拳聖は、その生涯を空手道の発展と進歩のために捧げて1988年8月13日に天
寿を全うし他界した。残した大きな遺産として、弟子達―総師範、Dr.久高正之空観、
範士九段、主席師範、久高正光、範士八段はじめ、世界各国で、琉球武術を受け継ぐ
王家の手、琉球源流―少林寺流拳行館空手道を実践しており、今もその真髄は脈々と引
き継がれ、生き続けている。
~~
 その後、子供達により良い教育環境を与えるために、上京して世田谷区の下北沢に、王
家の手、琉球源流―少林寺流拳行館道場を開いた。ここには和道流の創始者大塚博紀拳聖
が,定期的に訪ねて来て、熱心に研修され、基本の形―平安を、剛法として平安初段、柔法
として、平安四段を取り入れるようにされて、稽古に通っており、基本技の突き技に、和
道流の「流し突き」や組手の修練法には王家の手、琉球源流―少林寺流拳行館空手道の基
本尾技法の、また基本の形に、強く影響がみられる。


 一九五五年に、東京新宿区の早稲田に道場を移したが、王家の手―琉球源流-少林寺流
空手道・柔道の道場開きの式典には、“”木村の前に,人は、無し、木村の後に人は無し“と
謡われた、木村師範の先生‐師、牛島辰熊師範、それに、柔道のメッカ講道館で、戦前、琉
球拳法唐手の演武をした、松濤館流始祖の船越義珍拳聖とや松濤館流最高師範で沖縄空手
協会会長の儀間真謹(ぎま・しんきん)拳聖がお結わいに駆けつけて列席した。息子正之
、若干14歳が、防具使用の組手・試合を、儀間拳聖大人の黒帯、10人掛けを行い、儀
間拳聖が、最初の5人、牛島師範が、後の5人の審判を行い、道場開きに、花を咲かせた
~、息子正之、若干14歳が、大人の黒帯、10人掛けを行い、儀間拳聖が、最初の5
人、牛島師範が、後の5人の審判を行い、道場開きに花を咲後のかせた~」


 久高政祺幸利、拳聖は、常に科学的・近代的な空手を目指しており、早くから安
全に組手の稽古が出来、審判の判定が公平に出来る防具の必要性を認識していた。そして
、実際に剣道の兜などの防具を改良して稽古や試合で採用していた。最初に、防具組手・
試合の審判規則を制定し、防具組手・試合の大会を行つた~ この事が、後に、これがの
ちに安全防具のスーパーセーフの開発と硬式コンタクト空手道―組手・試合競技に,つな
がる繋がる~、につながった。
 その人生の大半を空手道の発展と進歩に捧げ、一九八八年八月十三日に多くの弟子たち
に惜しまれながら八十一年の生涯を閉じた。その遺産は、長男の総師範久高正之空観拳聖
や孫の久高正光範士八段を初め、多くの弟子たちによって引き継がれた。そして、世界各
国で王家の手―琉球源流―少林寺流拳行館空手道として、その真髄が今日まで脈々と生き続
けている。
*~、
**~、
* 琉球武術、王家の手、琉球源流―少林寺流拳行館空手道とは、琉球武術、王家の手―琉
球源流―少林寺流拳行館拳行館空手道とは、
徒手空拳・蹴りを、最善活用し、勝負の原理を極め、さらに勝敗を超越した境地に、
達するよう、心・技・体を錬摩、向上する道である。
  その実際は、琉球伝来の古典―形の修錬は、日乃本の神羅手―角力、インドの拳法―カ
ラリパイト、中国武術―功夫などの形演武の特徴、それに、大自然の気息の法則、動
物の闘筝本能を生かした動作、更に、木と花の気勢と心気力を加えた、人の心と体に

 

活力の増強と健康増進の育成、-王家とその士族の嗜み、勇者としての教育--夜秘
かに鍛錬されていた組み手の修錬法を、一般公開して、安全防具、スーパーセーフ・
プロテクターを使用し、怪我の心配なく、思いきり、突き、蹴り、打ち、当て極める
最も実戦的、且つ健康的な、古典武道としての心・技・体の修練法を、開祖Dr.久高政
棋幸利、拳聖十段が創治され一般に公開して、教授指導された。

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プロフィール

プロフィール

名前 name
久高正之
masayuki Kukan Hisataka
生年月日 Date of birth
昭和15年11月18日
November,18th,1940
出身地 Native Place
東京都
Tokyo,Japan
身長/体重 Height/Weight
174cm/82kg


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久高正之オフィシャルブログ
http://diamondblog.jp/kukan/

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