渇望が芸格を創る
久しぶりにミュンシュの「第九」を聴いた。未聴の方にはぜひ聴いて欲しい、歌に溢れ、気宇壮大に疾走するベートーヴェンだ。同じ快速でも、シャイーのような空疎さもなく、深い有機性を感じさせる美事な演奏だ。
私の一番好きな第九はフルトヴェングラーの1942年度版で、同じ年の演奏にはヒトラーの前で演奏した(ヒトラー誕生日の前夜祭)ものもあるが、バイロイト版に比べても、この頃の演奏のほうが私の好みに近い。これもミュンシュあるいはトスカニーニと同様、快速なテンポである。
ただし仕方ないことだが録音は悪い。同じような演奏を良い音質で聴きたいと思い、前述のシャイーを買ったことがある。半ば予想通りではあったが、がっかりした。快速で駆け抜けるベートーヴェン。確かにその通りだ。スポーツカーに乗って、高速道路を快適にドライブしているような軽快さだった。
でも、トスカニーニともミュンシュとも、もちろんフルトヴェングラーとも全く違う。芸格において、彼らには及ぶべきもない。
ベートーヴェンの音楽が軽くては困るのである。もちろん、どのような演奏を良しとするかについては個人差が大きいし、また演奏解釈も畢竟は時代の子であって、軽佻浮薄な現代においては、ある意味フィットした録音だと言えなくもない。
熱狂的でロマンチックだったフルトヴェングラー、強靭な精神の下に溢れる歌心を持っていたトスカニーニ、機械的なようでいて有機的、完璧でありつつも自由闊達なセル。もう半世紀以上も前に活躍した指揮者たちの演奏に、それでも私は心を惹かれる。
殆どの録音はモノラルだし、ノイズもすごいけれど、音楽そのものではなく、音楽の向こう側にあるものを感じさせてくれる。
秀才は、誰も射ることのできない的を射る。天才は、誰にも見えない的を射る。
ショーペンハウアーはそう言った。現代の指揮者たちが秀才ならば、昔の巨匠たちは天才なのだろう。
指揮者に限らない。少なくともベートーヴェンの音楽に限っては、そうだ。ピアノならシュナーベルやソロモン、かろうじてバックハウス、一番最近でもギレリス。弦楽四重奏曲だったらバリリやカペー、アマデウス、ブダペスト。彼らの演奏にみられる曲趣の深みは、現代の演奏家には薬にしたくもない。
でも、なぜそうなったのか。
「渇望」が無くなったから。それが私の考えだ。
ベートーヴェンの伝記を読んだ人だったら、彼が何度も恋をしたことは知っているだろう。決して二枚目とは言えず、耳が聞こえず、貧乏で身分も高くない。それでも簡単に諦めることもなく、美しい貴婦人に恋をし続けた。
しかし、それで恋が実るわけはない。そのことが分かっているからこそ、彼は音楽で補ったのだ。女性と交わす愛の言葉たちを、鍵盤や弦楽器で補ったのだ。
現代の音楽家たちは、たいていが両家の子女たちである。教育に金がかかるから仕方ないのだが、でもそんなベートーヴェンの音楽を、戦争も知らず、飢えたこともなく、恋愛で苦労したこともないような若者たちには、決して理解できまい。
昔の巨匠たちの演奏を、私はこれからも聴き続けることになるのだろう。天才の登場を待ちながら。