SOLA TODAY Vol.194
ボクが子供のころは、『ガリ勉』という言葉が一般的に使われていた。一般庶民の子供は学習塾なんてまったく通わない時代に、コツコツと勉強する子供を揶揄した言葉だ。いい意味で使われることはない。
そんな同級生が中学校になると、突然姿を消してしまう。中学受験をして私立の有名校に進学するから。そのときになって、自分たちとちがう人生があることを痛感させられた記憶がある。
学校の勉強が別に嫌いではないボクだったから、そんな人生もありうると知ってちょっとショックだった。学校の成績が少しくらい良くても、同級生にそれを話すことなんてありえない。だって『ガリ勉』と言われてバカにされるのがわかっていたから。
『ガリ勉』という言葉は死語かもしれないけれど、勉強のできる子供を揶揄する風潮は今でも残っているらしい。
この記事を読んで、現代でも勉強する子供に対してバカにしたような言葉を吐く人がいることを知った。
そのことが明らかになったのは、子役で有名な芦田愛菜さんの中学受験に関する報道。有名な中学に合格したそうで、1日12時間勉強したこともある、と本人がインタビューに答えたらしい。
それに対して一般の声で多いのは、「可哀想」というものだった。つまり親に言われて泣く泣く12時間も勉強したのだろう、という感想らしい。
そりゃなかにはそんな子供がいるかもしれない。だけど現代において、ほとんどの子供はそんなことないと思う。中学受験という12歳で向き合った壁に果敢に挑んでいる子供もいるだろうし、勉強そのものが好きで取り組んでいる子供もいるはず。
ボクがTwitterをフォローしているある著名人は、中学受験をふりかえってとても楽しかったとツイートされていた。新しいことを学ぶ喜びを知ることができて、のちの人生に大きな好影響を与えたと明言されている。
でも『勉強』に対する風当たりは厳しい。
この記事にも書かれているけれど、スポーツや将棋等の他の分野で活躍している子供の場合、1日12時間練習したと答えても「可哀想」」という声は出ない。ほとんどが賞賛の声になる。
メディアもそうした状況をあおっているのは事実だろう。この芦田愛菜さんの件についても、報道そのものに悪意のある誘導的な意図を感じてしまう。勉強ができる優等生は気の毒だと言わんばかりだものね。
もっと人間の多様性を認めるべきだと思う。昨日関西のローカルニュースで、性同一性障害を抱える若い弁護士さんの特集があった。彼女(彼)が訴えていたのは、「わたしはわたし」ということ。それが何より大切だと思う。
勉強することが好きならば、とことんやらせてあげればいい。それを揶揄するなんて、ただのひがみや妬みにしか見えない。メディアもそうしたステレオタイプの報道を自制して、人間の多様性を認めていくべきだと思う。
こんな日本だったら、まだまだ『飛び級』なんて実現しないだろうなぁ。みんなと同じことが正しいことだ、と思い込まされている。そこから飛び抜ける人や、落ちこぼれていく人を、認めようとする社会じゃないのが現状だろう。
素晴らしい提言をしている記事だと思うので、ぜひ読んで欲しいと思った。
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