今日のウィルバーくん 1.1
今日から始めた新企画です。ここではケン・ウィルバーの言葉を紹介したいと思います。彼はトランスパーソナル心理学の代表的論客として有名です。しかしその思想は深く高く広がり、やがてトランスパーソナルのと決別を表明します。
私は彼の言葉がいつも心に刺さります。そして魂の奥深くで、大きな揺さぶりを感じます。それは、目を覚ませ!という強い衝動です。彼の言葉の中核をなしているのは『わたしは誰?』という命題です。おそらくこのことを追求していく1年になると思います。わたしが挫折しなければですけれどね。
さて、今日は少し長いですが、ウィルバーが自分に対する意識の向け方を説明している文章を抜粋します。
〜以下抜粋。
ゆっくりと、次のように、頭のなかでとなえる。できるだけはっきりと、鮮明にそれぞれの句の言っていることの意味を捉えるとよい。
わたしには体がある。しかし、わたしは体ではない。わたしは体を見たり、感じたりすることはできる。しかし、見たり、感じたりされる対象は、見ているものではない。わたしは体が疲れたり、興奮したり、病気になったり、元気になったり、重かったり、軽く感じたりする。しかし、それはわたしの内なるわたしではない。わたしには体がある。しかし、わたしは体ではない。
わたしには望みがある。しかし、わたしは、わたしの望みではない。わたしは自分の望みを知ることができるが、しかし、そのように知られる対象は、知るものではない。望みは、起こっては消えていく。それはわたしの意識のなかを漂っている。しかし、それは内なるわたしには関係ない。わたしには望みがあるが、わたしは、わたしの望みではない。
わたしには感情がある。しかしわたしはわたしの感情ではない。わたしは自分の感情を感じたり、気が付いたりするが、感じられたり、気が付かれる対象は、気が付くものではない。感情は、わたしを通り過ぎていく。しかしそれは、内なるわたしに影響しない。わたしには感情があるが、わたしは感情ではない。
わたしには思考がある。しかし、わたしは思考ではない。わたしは自分の思考を知り、直観したりするが、そのように知られるものは、知るものではない。思考は、やってきては、去っていく。しかしそれはわたしの内なるわたしに影響しない。わたしには、思考があるが、わたしは思考ではない。
これを、できれば数回、繰り返したあと、次のように、できるだけ具体的に、次のように確認する。
わたしは以上のどれでもなく、それらすべてがなくなっても残るものである。わたしとは、意識の中心、すべての思考、感情、感覚、望みを見守る、不動の「目撃者」である。
〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『無境界』より。
この文章を読まれて、どのように感じられたでしょうか? ウィルバーがわたしは誰? と問うているのは、この「目撃者」です。目撃される対象である限り、それは現れては消えていくものです。本当のわたしは、それらの対象を目撃している存在です。すなわち目撃される対象である限り、それは本当の自分ではない、とウィルバーは力説しています。これが彼の思想の基本です。これから何度もここで目にしていただくことになるでしょう。
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