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高羽そらさんインタビュー

今日のウィルバーくん 1.20

『エゴ』と『目撃者」、あるいは『自我』と『真我』と言い換えてもいいでしょう。先日から紹介しているウィルバーの言葉どおり、『目撃者』が『エゴ』を同一化してしまうことで、時間の世界に取り込まれてしまいます。『真我』が『自我』を自分だと思い込んでしまうことで、有限の世界ゆえの苦悩を経験します。

 

究極的には一つですから、それらはいつか『一者』となります。でもそこへ至る前に、『自我』というものが対象物のひとつに過ぎないことを理解しなければいけません。ですから両者の間に、特定の『距離』を設ける必要があります。そうすることによって、客観的に『自我』を見ることができます。

 

そのことについて述べられたウィルバーの言葉を抜粋します。

 

〜以下抜粋。

 

「目撃者」は、エゴとも、またほかのいかなる心的対象とも、同一視することはできない。それは、すべての対象を公平に目撃する。しかし、まさにそこがポイントであって、「目撃者」は、目撃するすべての対象から離れている。言い換えれば、ここには主体/客体の二元論の微妙な形態が残っているのである。「目撃者」は、大きな前進であり、瞑想における必要かつ重要なステップであるが、究極ではない。

 

「目撃者」ないし純粋な魂が最終的に解体されると、それは目撃されるものすべてのなかに溶解してしまう。主体/客体の区別は崩壊し、そこには純粋な非二元的な意識のみがある。それは非常にシンプルで明白なものであり……すべては継続して生起するが、そこから切り離されたものはいない。そこに主体/客体の分断ないし分離はない。そこにはかぎりなく透明で、光り輝く、開かれた経験の流れがあるのみである。

 

わたしとは、今、起きていることのすべてなのである。

 

〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『グレース&グリット』より。

 

簡潔ですが、とても意味の深い文章です。この文章には、「目撃者」にはまだ二元論の形態が残っている、と書かれています。つまり対象との距離が存在するわけです。一度はそうしてその距離を自覚しないと、エゴを同一視してしまうことになります。

 

でも、「目撃者」が究極ではない、と説明しています。

 

なぜならば、「目撃者」が最終的には目撃されるもののすべてのなかに溶解してしまう、からです。それこそが究極のワンネスです。すべてが一つであることを知るためには、一つでないことを経験しなくてはいけない。このことのなかに、私たちがこの世界に生まれてきた意味が隠されているのではないでしょうか?

 

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高羽そら|たかはそら(作家、小説家)プロフィール

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高羽そら(たかはそら)
今後の目標:毎年1つの物語を完成させたいと思います。
生年月日:昭和37年5月10日
血液型:A型
出身地:京都市

【経歴】
1962年京都市生まれ。数年前に生活の拠点を神戸に移してから、体外離脱を経験するようになる。『夢で会える 体外離脱入門』(ハート出版)を2012年1月に出版。『ゼロの物語Ⅰ〜出会い〜』、『ゼロの物語Ⅱ〜7本の剣の守り手〜』、『ゼロの物語Ⅲ〜次元上昇〜』の3部作を、2013年7月〜12月にかけて、オフィスニグンニイバよりAmazonのKindleにて出版。現在も新たな物語を執筆中。

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