今日のウィルバーくん 1.22
思考の根源について考えたことがありますか?
ある思考がやってきた時、それはどこから来たのか? その思考の根源は「わたし」であると主張したのが、ラマナ・マハリシです。ウィルバーは自分の著作で、そのことについて書かれたラマナの言葉を紹介しています。
『心の中に起こる、すべての思考の根底にある、最初の思考は原初の「わたし──思考」である。この「わたしという思考」に続いて、数限りない思考が起きてくるのだ』
私たちが自分のことを考えるたび、それは「わたしという思考」になる、ということです。ですから思考の根源である「わたし──思考」を停止させることは、ほかのすべての思考や心的対象を停止させることになります。そうすることによって真我を思い出すことができます。
ところが「わたし──思考」はエゴですから、以前にもこのブログで説明したように、なくそうとするとかえって肥大化します。なくすのではなく停止させるのです。そのためにラマナは、「わたしとは誰か」という自己探求をすすめています。それについてのウィルバーの言葉を見てみましょう。
〜以下抜粋。
この自己探求はどのようなものか。例えば、わたしが次のようにあなたに問いかけたとする。「あなたは誰ですか」と。
あなたは答える───「わたしは、こういう仕事をしている、結婚している、宗派はこれである、そういう意味ですか?」と。
「いいえ、それは単なる対象です。単なる概念です。そうではなく、そうした概念を見ているあなたとは誰ですか?」
「では、わたしは人間です。一定の生物的機能を備えた有機体です。そういう意味ですか?」
「いいえ、それも違います。それも単なる概念であり、それゆえに対象です。もっと深く、あなたはいったい誰ですか」……。
この答えを求めるために、心を自分に向け、さらに問いかけているうち、心は次第に静かになっていく。
〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『意識のスペクトル』より。
禅における公案というものがあります。答えの出ない問いについて考え続けることによって、心の静寂を得ていく。禅問答とも呼ばれているものです。
もしかすると「わたしは誰ですか」と問い続けることは、その禅問答と同じ意味合いを持っているのかもしれません。どれだけ深く心を見つめていっても、「わたし──思考」が存在する限り答えは出ません。それは常に「わたし」だからです。
それでも問い続ける。答えを求めて心を自分に向ける。そうするとある瞬間、言葉を超えた答えを得るのかもしれません。
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