SOLA TODAY Vol.167
昨日読了した本に書かれていたが、「質問に正解など存在しない」という文章が心に残っている。
その質問というのは、1+1というように答えが決まっているものではない。生き方や考え方という、人生における指針のようなものだ。そんなたぐいの質問に、たったひとつの明確な答えを求めようとすると、行き詰まってしまうのは目に見えている。
だって、「正解など存在しない」のだから。
だからといって、考えることをやめてはいけないと思う。どうするべきか、という問いかけをストップすることは、思考停止におちいるだけ。常に今の自分の状況に応じて、問い続けていくことが必要だろう。
まさにそんな答えのない質問に出会った。
尊厳死という言葉が世に出て久しい。ボクも関連する本を何冊も読んでいる。だけど日本の医療現場では、まだその概念が浸透していない。
完治しないことが明確で、患者本人が安らかな死を望んでいたとしても、もし医師が人工呼吸器を外せば罪に問われる可能性が高い。いまだに警察がそのことで動くことがあるし、実際に殺人容疑で起訴された医師もいる。
しかし海外において『リビングウィル』という概念は一般化しつつあり、その意味において日本は後進国となってしまった。そんな状況を改善しようと超党派の国会議員が集まって、2012年に「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」が検討されている。
だがいまだに国会提出に至っていない。議論が続けられているだけで、「死ぬ権利」を法で定めるかどうかの答えが出ていない。
そんな尊厳死の法制化について、3人の識者にインタビューした記事。
日本尊厳死協会の副理事長。日本ALS協会理事。そして精神科医の3人だ。
その3人は順に、賛成、反対、中立という並びになっている。どの意見も一読の価値があるので、時間のある方はこの記事をじっくりと読んでほしい。様々な立場の人の意見を知ることで、自分の頭でじっくりと考えるきっかけになると思う。
最初にも書いたが、「死ぬ権利」を法で定めるかという質問は、簡単に答えが出るものではない。もしかすると答えのない質問かもしれない。
だけど思考停止してしまうことで、放置しておくべき質問でないのは明らか。なぜなら今の日本はすでに高齢化社会であり、さらにその傾向が加速していくのは避けられない。延命技術の進歩とともに、『死』に対する患者本人の意思が尊重されるべき時代になっている。
自分に置き換えてみたとき、患者の立場、家族の立場であるかによって、意見がちがってくるかもしれない。自分に関しては『死』を選択したいと思っても、家族に対しての判断を委ねられたら、素直に首を縦にふれないかもしれない。
なぜなら最終的な判断をくだす段階で、患者本人に意識があるとは限らないから。意識があるときに尊厳死を望むことを口にしていたからといって、いざその段階になって本人がどう思っているかまでわからない。
もし法制化されていたとすると、本人が残した意思表明の書類の有無だけで判断されてしまう。医師はなんの躊躇もなく延命措置を停止するだろう。その瞬間の患者の意思は無視されることになる。
でも今のままなら本人が嫌だと思っても、医師は延命措置を続ける可能性が高い。だって殺人罪で起訴されたくないから。
ボク個人の意見は決まっている。延命措置などまったく必要ない。妻にもそう言っている。たとえ意識がなくて意思表示できなくても、そうしてほしいと思っている。
だからといってボクの気持ちを押し通すことで、担当している医師が犯罪者扱いになるのはつらい。そういう法的にあいまいな部分は、できる限り解消しておくべきだと思う。
少なくとも医師との綿密な意見交換によって、患者や家族が選択できる状況にしてほしい。とにかく答えが見えない問題だけれど、『自分』のこととして常に考えていきたいと思っている。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。