ここにいることが価値の証明
11月に入って、さすがに空気が冷たいなぁと感じるようになった。でも買い物をして自宅までの登り坂を歩くと、ポカポカとしてちょうどいい。上着なんて必要ないからね。
帰り道で、こんな可愛い紅葉を発見。まるでハートマークが並んでいるみたいだよね。なんだか幸せな気持ちにさせてもらえる。
人間同士が、ハートとハートでつながっているようなイメージ。本当にそのとおりであればいいなぁ、と心から思う。
そう言えば、今朝は妻が素敵なことを言った。朝食を食べながら、バルコニーの向こうで走っているJRの列車をながめているときのこと。こんな時間から、誰かが列車を運転しているんだね。というような話をしていた。
すると妻が、「わたしたちって、知らないあいだに大勢の見知らぬ人たちのお世話になっているんだろうな」と言った。
まさにそうだと思う。どこかに行く目的で列車に乗っていても、いちいち運転手さんのことをたしかめない。男性か女性かも知らなければ、その人がどんな人生を歩んできたかも知らない。だけどその瞬間にその人が運転手でいてくれたから、ボクたちは無事に目的地へ到着することができる。
シニカルな人なら、「その人でなくても列車は走る」と言うだろう。だけどちがうんだよね。やはり人間には縁というものがあって、何らかの意味があってその瞬間に立ち会っている。もし別の運転手さんなら、怪我人出るような事故を起こしたかもしれない。無事であるということは、見知らぬ大勢の人たちの努力の結果だということ。
毎日食べる野菜、映画を観ているテレビ、住んでいるマンション等、誰かが仕事をしてくれたおかげで、ボクたちは生きることができる。その人たちはそんなことを意識していないだろうけれど、めぐりめぐって誰かの幸せのために時間を使ってくれているんだと思う。
だったらボクはどうだろう? 他人の幸せのために時間を使っているだろうか?
それはわからない。ボクが書いた本を読んで、誰かが何かを感じてくれているかもしれない。そうだとうれしいけれど。だけど日々小説を書いているからと言って、それがどのように役立っているかを知るのは不可能。
ノーベル文学賞を受賞するような作家なら歴史に名前が刻まれるだろうけれど、ほどんとの作家は時代とともに忘れ去られて行く。著名なタレントでも、表舞台から姿を消せば名前さえ出てこなくなる。今から100年後に、自分のことを知っている人なんていないだろう。
だけどボクは思う。生きている限り、顔も知らない誰かの役に立っているはず。
ここにいることが、その価値の証明だと思う。
それはセレブでも、ロックスターでも、家庭の主婦でも、ホームレスの人でも同じ。何もしていないような人でも、生きるために行動する。そんな行動のひとつが、波紋のように誰かに伝わるはず。
どんな人も顔を知らない誰かのお世話になっているし、顔も知らない誰かのために役立っている。それが『生きる』ということ。
だから命ある限り、ボクはなんとしても生きようと思う。今朝のブログでも書いたけれど、堪え難い苦痛だと感じるまで安楽死は望まない。だって生きている限り、誰かの幸せに役立っているはずだから。最後の最後まで、命を無駄にしたくないと思う。
自分が役立っていることを知りたいとは思う。だけど本当は必要ない。自分が今ここにいることが、その証明だからね。これらかも、そう思って生きていきたい。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。