罪と罰
全国的に夏の気温になったようで、神戸もかなり暑かった。まだ梅雨前線が南にあるから、空気はカラッとしている。日影を歩いている分には問題ない。でもひなたに出ると、じっとりと汗ばんでくる。
こんな色の花を見つけると、南国のいるのかと思ってしまった。それでも夏恒例のバスに乗らず、帰り道もせっせと坂を登って帰った。本格的な夏になると運動できなくなるので、歩けるうちに歩いておかないとね。
さて昨晩、ようやく読了した本がある。
『罪と罰』下巻 ドストエフスキー著という本。
上巻を読んでから少し時間があいたけれど、ようやく下巻を読み終えた。この下巻だけでも文庫本で600ページ近くある。さらに改行が少なく、びっしりと文字が詰まっている。毎晩2時間くらいは読んだけれど、3日かかってしまった。
それだけ時間がかかったのは、分量の問題だけじゃない。この作品の世界観に惹きつけられるあまり、読み進むのが惜しいと感じていたから。じっくりと頭で映像化しながら読み進めたので、たっぷりと時間を使った。
一度は読むべきだ、と先人たちが言われたのがよくわかる。とんでもない小説だった。主人公のラスコーリニコフは、上巻の早々で殺人を犯す。だから犯人はわかっているけれど、自首するまでに至る推理小説として読める。
さらに娼婦でありながら無条件の愛に生きるソフィアとの恋愛小説でもあり、あるいは犯罪心理の葛藤を描いた心理小説の側面もある。どの部分に反応するかによって感想はちがうだろうけれど、とにかく忘れられない作品になった。何度も読みたくなる。
この下巻の解説にも書かれていたけれど、この小説の主人公が『ペテルブルク』という言葉がぴったりはまる。1860年代のロシアのペテルブルクで、人々がどのような生活をしていたのか、克明に記録されている。それは壮絶なものだった。
ボクは言葉にならない。何度も胸がかきむしられるように感じ、涙がこぼれ落ちた。これほどの貧困があるだろうか? これほどの絶望があるだろうか?
ボクが心のそこから涙を流したのは、ソーニャの継母であるカテリーナの死。元は将軍の娘だったのに、貧困の世界にどっぷりと浸かっている。結核を病み、夫は事故死して、幼い子供を3人も抱えている。
夫の連れ子だったソーニャが娼婦で稼いでくれなければ、まともに生きていけない。義理の娘を愛しながらも、残酷な現実を受け入れざるを得ない。そしてすべてに絶望して、彼女は発狂した末に結核で命を落とす。今思い出しても涙が出てくる。
もちろんこの映画の主要なテーマである、犯罪心理のやりとりも忘れがたい。特にラスト近くで繰り広げられる、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフという人物とのやりとりは、壮絶なものだった。
もうひとつ重要な争いがある。それはラスコーリニコフとソーニャとの信条の争い。愛する男性が殺人犯だと知ったソーニャは、自首することを勧める。そして自分は生涯をかけて、流刑地に行くラスコーリニコフを助けると宣言する。それは言葉だけではなかった。
一方ラスコーリニコフは、自分の犯罪理論に固執する。シラミのような害悪しかない人間を殺し、奪った金で自分が成功することで、大勢の人を助けることができる。それは罪でないという、彼の犯罪理論だった。その典型的な例として、ナポレオンがあげられている。
そんなラスコーリニコフも、シベリアの流刑地でやがてソーニャの献身的な愛に気づく。自分だけでなく他の囚人に対しても、愛する家族のように接するソーニャ。そんな彼女に対してかたくなに抵抗していた彼も、やがて自分が心から彼女を求め、愛していることに気づく。
幸いにもラスコーリニコフの犯行前の善行と人間性が認められ、刑期は7年という短いものだった。この悲惨な小説を読み終えて癒された気持ちになるのは、ラスコーリニコフとソーニャが手を取り合って、刑期が終了した先のふたりの人生を思い描いているからだろう。やっぱりハッピーエンドはいい。
時間はかかると思うけれど、ドストエフスキーの他の作品も読んでみるつもり。トルストイ推しのボクだったけれど、この年齢になってドストエフスキーにハマるとは思わなかった。いやぁ、本当に素晴らしい小説だった。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
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