死ぬまで続けたい思考実験
今年なってからある思考実験を継続している。日々の生活のなかで意識しているけれど、これがなかなか手強い。おそらくボクが死ぬまで続けても明確な答えが見つかるかどうかわからない。いつ死ぬか知らんけどwww
それでもやる価値があると思っている。でも心で思っているだけだと、なかなか問題点が見えにくい。そこで一部だけ文章にしてみることにした。それゆえボク自身の確認のような内容なので、適当に読み流してもらえたらと思う。
この思考実験には大きな前提がある。『すべてはひとつである』というもの。いわゆるワンネス意識。
ところが自分のことをかえりみると、とてもじゃないけれど『すべてはひとつである』なんて思えない。世界の人口だけでも何十億という人がいるし、地球上にある鉱物や動物・植物を考えると、気が遠くなるような数になる。さらに宇宙にまで意識を向けると、自分以外のものなんて気絶しそうなほど存在する。
この思考実験における最大の障害はここ。ボクという人間が世界を見た場合、『自我』の範囲でしか理解や知覚できないということ。ボクが自分だと感じるのは、172センチの身長の範囲内。肉体全体を包む皮膚より外の存在は、すべてが他者となる。
それゆえ大きな飛躍が必要になる。まず『自分』を把握するのは比較的容易。だけど『すべてはひとつである』なら、他者だと思っているそれらも『自分』だということになる。つまりそう思い込むしかないということ。
人間でいる限り、『自我』の範囲を超えて自分を認識できない。まずはそれを認めるしかない。そのうえで自分以外の存在を『自分』だと考えてみる。これがボクのやろうとしている思考実験。
ボクがイメージしているのは、無限大の大きさを有するジグソーパズル。ボクという『自我』はそのパズルのひとつのピース。それ以外はすべて他者にしか感じられない。だけど本当のボクは、その無限大パズル全体だということになる。
まず最初に考えたのは、この世界はすべてボクだけれど、それに包まれている『自我』だけを認識しているという感覚。だけど『すべてはひとつである』を知ろうと思うのなら、『自我』の枠を超えて自分を拡散していくしかない。
これがかなり難しいwww それでも少しずつ体験を積み重ねている。
例えば買い物に行っているとき、不快な思いをさせられたとしよう。街で歩いていて誰かにぶつかられたり、信号のない横断歩道で自動車が止まらずに突っ込んできたりした場合。以前なら瞬間湯沸かし器のように脳みそが沸騰していた。
でもその人たちを別のピースの自分だと考えると、なぜか無駄に怒っていることが馬鹿らしくなる。ルールを守ることは相手に伝えるとしても、余計な怒りに翻弄されることがなくなった気がする。
さらに感じていることとして、孤独感の緩和という感覚がある。ボクは子供のころから得体の知れない孤独感を覚えていた。何かから切り離されたような不安を常に抱えていて、友人たちと過ごしていてもその穴を埋められない。高校生のころなんてひどいものだった。
だけど自分以外のすべても『自分』だと思い込んでみることで、少しだけ感じたことがある。ボクが感じている想いや感情を、あえて他人に説明する必要はないということ。家族以外の人間関係において、誤解や不和を避けるために必死になって自分の気持ちを伝えるのはしんどいもの。
だけどもしすべてが自分なのだとしたら、他者に説明しなくてもどこかでその思いが伝わっているはず。誰かの理解を得るために、必死になってエネルギーを消耗させる必要なんていらないのでは、と感じるようになった。
その副産物として、無意味な孤独感から遠ざかったような気がする。孤独だと感じるのは『自我』を通してしか世界を知覚できないので、たった1個のピースが世界のすべてだと考えていることが原因。でも自分を取り巻くすべてが『自分』だと思い込んでみることで、暖かいお湯に浸かっているような気持ちになれる。
とまぁ、こんな取り止めのないことを考えている。思っていることの100分の1も書いていないけれど、こうして文章にすることで整理できる。一生続くであろう思考実験なので、人生の最後を迎えるときには、少しでもいいから『自分』が宇宙に向けて広がっていればいいなと願っている。
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