プチ☆スピ VOL.13
今日も一日爽やかな天気でしたね。ブログを書き始めた午後5時半頃で、大阪方面の空と海はまだ青く輝いています。自宅では窓を閉めておかないと、肌寒く感じるくらいです。
鉢植えの紫陽花は、もう花をつけていますね。地植えの紫陽花もつぼみが大きくなってきました。神戸の六甲山のドライブウェイはアジサイロードと呼ばれている、紫陽花の名所ですよ〜!
【学びに過去はない】〜『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話』より。
いつも書いていますが、この「学び」は「気づき」のことです。つまり「気づき」は過去にはなく、「今、ここ」にあるということですね。アハハ、これだけで完結してしまうほど、シンプルで奥の深い言葉だと思いま〜す
「学び」つまり「気づき」を得ることは、知識ではなく知恵によってもたらされると言っています。知識と知恵を取り違えると、「気づき」を得ることから遠ざかっていくのかもしれませんね。そのためには「自分自身を知ること」、つまり自己知が成熟することで知恵が生ずると説明しています。
その自己知ですが、自分自身について学ぶことと、自分自身について知識を蓄えることは、二つの異なった事柄である、と言っています。
「知識を習得している精神は決して学びません。それがやっているのは、自分自身の中に情報や知識としての経験を蓄え、その蓄えたものを背景として、そこから経験し、さらに知識を広げて習得しているだけです」というのが知識を蓄えることですね。
「学びは常に進行中の現在にあります。学びには何の過去もありません。自分に向かって『私は学んだ』と言った瞬間、それは既に知識になってしまうのです」と自分自身について学ぶということを説明しています。
「習得せずに、常に学びつつある精神、そういう精神だけが、私たちが『私』と呼んでいるこの存在全体、すなわち自己を理解できるのです。私は自分を、その構造を、性質を、存在全体が持つ意味を知らなければなりません」
自分自身について学ぶことを説明した言葉ですが、じっくり読んで理解する必要があると思います。昨日私がブログに書いた時間の消失という体験は、こうした「今、ここ」での気づきを伴うときに起きる現象のひとつだと思います。
さらにクリシュナムルティは蓄積してきた過去の知識や経験を、「重荷」とまで言い切っています。
「そのような重荷を背負ったままであったら、私は学んでおらず、単に自分なりに判断し、解釈し、過去によって既に曇らされている眼で見ているだけだからです」
いや〜、あまりにバッサリと切り捨てられているので小気味よく感じます。この言葉に抵抗を感じる方は、もしかすると執着して手放せないものがあるのかもしれませんね。
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