SOLA TODAY Vol.360
子供たちの夏休みも、残すところ一週間あまり。宿題に追われる子供にとってはカウントダウンが始まったも同然だね。
そして9月になれば、教室にクラスメイトがそろって授業が再開される。そんな経験は遠い過去の出来事になってしまったけれど、今でも教室の情景は心に焼きついている。教師が黒板に何かを書くと、必死になってノートに書き写す。それが当たり前の風景だった。
だけど現在の学校はどうも様子がちがうらしい。特に大学では黒板に板書されたものをせっせとノートに書き写す学生は減少する一方とのこと。
だったらどうするのか? それはスマートフォンに置き換わっている。
大学生にアンケートを取った結果によると、大学の授業中に板書されたものをスマートフォンで撮影した経験がある人は、9割ちかくになるとのこと。たしかに便利だし、ボクが学生なら同じことをする。
だけど教師によっては抵抗感を覚える人がいて、講義中は撮影しないことを了承する誓約書を提出しないと、受けられない講義も出てきているらしい。
その一方で、外国人の教師からは歓迎されている。書き写している時間が無駄だし、紙の節約にもなる。あえてスマートフォンでの撮影を推奨している教師もいる。
今の流れからすれば、板書をノートに書き写すなんて時代遅れなのかもしれないね。そのうち高校生にも撮影が当たり前になっていくだろう。
書くことって、意外に大切だと個人的には感じる。スマートフォンで撮影してそれを見ても、勉強した気になってしまうだけのような気がする。実際に書くことで、覚えていくこともあるだろう。
でもそういうボクだって、すっかり文字を書くことがなくなった。昨日もパソコンの修理店に電話予約をしたとき、口頭で予約番号を控えるように言われたメモを探すのに苦労した。なんでもスマートフォンにメモをするようになってから、ペンや紙が目につくところに無い。
歌舞伎のような古典芸能の世界だって、普段のお稽古に加えて動画での勉強が欠かせなくなっている。市川海老蔵さんのブログを見ているとよくわかる。お父さんの市川團十郎さんは亡くなっているけれど、映像を通じてその芸を学ぶことができる。
最新の電子機器を駆使して学ぶことは、現代では当たり前のことだろう。板書の撮影を禁止するかどうかの議論なんて、無意味だと思える。
さらにもう一歩踏み込んで言うのならば、そうした形式の講義自体が無駄じゃないだろうか?
実験や実習を伴う講義ならわかる。だけど大勢の学生を一堂に集めて、教師が黒板に何かを書いて話す講義なんて意味がないように思う。勉強する気になれば世界中の学術論文をネットで読むことができる。
板書の内容なんて写真や動画を共有すれば、いつでも勉強できる。教授と議論を戦わせるような講義内容なら、Skype等を使えばどこにいても可能だろう。何もがん首そろえて同じ場所に集まる必要なんてない。
学校教育の方法そのもの、もっと言えば学校制度そのものを見直す必要がある。学校なんていらない、と言う意見は、決して絵空事ではなくなってきたように感じる。板書を撮影するなんて、些細な問題にしか思えないな。
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