努力は才能に勝てない
『努力は才能に勝てない』という言葉は残酷。目標に向かって日々努力している人を打ちのめすことになる。どれだけ必死で頑張っても、生まれつき才能を持っている人には勝てない。そのことを自覚させられるのは、努力信奉者にとって死刑宣告に等しいだろう。
だけどボクは、その言葉が的を得ていると思う。そう、努力は才能に勝てない。
この記事には、その残酷な事実が客観的なデータで提示されている。努力信奉者がよりどころとしているものに、1万時間説というものがある。どんなことでも1万時間の練習を重ねることで、その分野では突出した存在になれるというもの。
だけどアメリカの心理学者の研究によると、1万時間説が根拠のないものであることを立証されている。もちろん練習が無駄になっているわけじゃない。この記事ではバイオリン奏者について調べている。
練習による効果があるのは認められたけれど、練習に費やした時間が実力のちがいに占めた割合は25パーセントとのこと。ほとんどの人にとって上手い人との差は縮まることなく、練習によって昨日の自分よりはうまくなったという程度のことらしい。
それは普通に考えたらわかる。天才と言われるような演奏者だって、同じように時間をかけて練習しているわけだから。もしかしたら、誰よりも長く練習をしているのはトッププレイヤーなのかもしれない。
最初に書いたけれど、ボクも『努力は才能に勝てない』と考えている。ただし『努力』と『才能』という言葉の概念をどうとらえるかが、何よりも大切だと思う。何が『努力』であり、どういうものが『才能』と呼べるのかによって、少し状況が変わってくる。
ボクの考えはとてもシンプル。
ある分野に対する『才能』というものは、日々継続することを『努力』だと思わないこと。これに尽きると思う。
つまり自分が目標としている分野において、「さぁ、今日も努力して練習しなければ」、「もう5千時間頑張ったから、あと残りは5千時間だ」というようなことを感じている人は、その分野において才能がないと思うほうがいい。
才能というのは、そのことが好きで好きでたまらないことだと思う。だから練習することを努力だなんて思わないし、自分を叱咤激励して頑張らなければと言い聞かせることもない。とにかく好きだからやるし、やらずにいられない。それこそが本当の「才能』だと思う。
もちろん体調や気分によっては、やる気のない日もあるだろう。だけどそれでもその世界から離れない。トッププレイヤーになることよりも、ただ好きで止めることができないという前提がある。才能がある人は結果を目的しているのではなく、それをやること自体が目的になっている。そこがちがう。
だからボクは、『努力は才能に勝てない』と考えている。努力を努力だと感じている分野は、自分に才能がないと思ったほうがいいだろう。結果がどうであれ、それをやめられない。その精神こそが、本当の『才能』なんだと思う。
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