SOLA TODAY Vol.601
常識だと思い込んでいることを否定されると、人間は混乱する。意見だけなら反論するだろうけれど、明確なデータを提示されると自分の頭をアップデートするしかない。
そんなとき、謙虚に事実と向き合うことで、これまでとちがった視点を持つことができる。今日の記事は、まさに新しい視点をもたらしてくれるものだった。
なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史
タイトルを見ただけで頭が???になる。最初はどういうことかわからなかった。
首都というのは、国の中枢機能が集結している。それゆえ、人口がもっとも多い街だという認識しかない。江戸に幕府が置かれた当時は、まだ天皇は京都にいた。だけど明治になって天皇が東京へ移住された時点で、人口が集中するのは東京以外にあり得ないと思うのが普通。
でもそうじゃなかった。廃藩置県が実施されて、人口の統計が取られるようになったのが1872年とのこと。その時点で最も人口が多いのは東京でも京都でもなかった。
なんと記録として残っているなかで、もっとも人口が多いのは広島県だった! この表を見ると、かなり頭が混乱する。
次の年は愛知県で、続いて新潟や石川がトップに出ている。大阪が全国一の時代もあった。ようやく東京が登場するのは、1897年になってから。その理由がこの記事で解説されている。
まず広島がトップになったのは、江戸時代は瀬戸内海が近畿に物流を供給する航路となっていた。綿や日用品、食料の生産拠点としてかなり栄えていたらしい。それほど大勢の労働力が必要だったのだろう。
愛知県は徳川家の発祥の地。それゆえ江戸時代は保護されていた。だから人口はもともと多い。そのうえ当初は三河と尾張が別の県だったが、統合されることでトップになった。
石川県も当初は富山と福井を含んでいたので、人口が多かったそう。そして同じ日本海側にある新潟もトップを取っている。当時の船の技術では、太平洋の黒潮に逆らって航行するのが難しかったらしい。それで日本海が物流の中心となり、「北前船」が日本の産業を支えていた。さらに米どころでもあるので、大勢の労働力が集中している。
もうひとつユニークなのは、日本海側は本願寺派の仏教が大勢の人に信仰されていた。それゆえ貧困であっても、「間引き」や「口減らし」が少なかった。だから人口がそこそこ多いということらしい。
ところが鉄道や汽船の発達で、「北前船」が終結を迎える。それで仕事を失くした人たちが、大挙して北海道へ移住した。さらに太平洋側で富国強兵にともなって工場等が作られていく。それで労働力が一気に太平洋側へ流れた。
大阪がトップを取ったのは、堺が統合されたことによるものらしい。東京が1位となったのは1897年。かなり出遅れている。でもこれ以降は、現在までトップの座を守り続けている。
ただし一度だけトップを北海道に奪われたことがある。それは1945年。東京は空襲にあい、大勢の人が命を落とした。さらに疎開で北海道へ移住した人が多いので、一次的に逆転現象が起きたらしい。
こうして全体をながめてみると、人間の動きと経済が連動しているのがよくわかる。とても勉強になる記事だった。
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