盲信することの恐怖
台風22号が刻々と近づく今朝の神戸。起床したときは、まだ雨が降っていなかった。でも午前9時ころになると雨が降り出した。
買い物に行くべきか、あきらめるべきか。
かなり悩んだけれど、思い切って行くことにした。てきぱきと動けば、本格的な暴風雨になる前に戻れるだろうという算段。そして順調に買い物を済ませて、最寄りのバス停に着いたとき。
かなりヤバい状態だった。風はブンブンと唸り声をあげ、雨は全身へ殴りかかるように降ってくる。それでもまだ少しだけ余裕があった。かなり早足になったけれど、どうにか昼前に自宅へ到着。その直後はとても歩けないほどの暴風雨になった。間一髪だったなぁ。
その後はしばらく嵐だった。でもこのブログを書き始めた午後4時半には、なんと西日が射している。神戸は暴雨風圏に入ることなく、台風22号は東へ去ってくれた。先週の台風がひどかっただけに、かなり余裕で見送ることができたような気がする。
こんな台風が近づいているときでも、我が家の近所のお寺では、ボクが「ヨイショ体操」と名付けた体操が、毎朝午前6時と7時に行われている。参加者のほとんどは年配の人たちなんだけれど、健康を信じて通っているんだろう。
暴雨風や雪が積もるようなときに体操するほうが、身体に良くないように思うんだけれどね。何かを信じるということの強さを感じる。
それで思い出したけれど、ある有名な宗教団体に所属する若い人たちが、よく駅前でプロモーション活動を行なっている。独特の節回しで歌いながら、踊っている。ボクはいつもその様子を見ながら、よくあんなことができるよなぁ、と思ってしまう。
言い方は悪いけれど、あそこまで行くと信仰というよりは盲信に近いような気がする。盲信というのは自分の周囲を客観的に見ることができない。だからどんなことでも恥ずかしいと思わないし、場合によっては命をかけてしまう人もいる。
それははるか過去の戦国時代でも同じだった。とても面白い小説を読んだ。
『村上海賊の娘』上巻 和田竜 著という本。和田さんといえば『のぼうの城』という有名な小説で直木賞を受賞された作家。もちろん『のぼうの城』は読んでいるし、映画化された作品も見ている。
この作品も同じく戦国時代が舞台。織田信長が武田軍を破って、大阪の本願寺を攻めているころ。偶然にも現在の大河ドラマがその時期だし、先日にボクが観た『信長協奏曲』という映画でも、この本願寺攻めが取り上げられていた。
でもこの物語の主人公は信長ではなく、瀬戸内海の海賊の娘。海賊といっても外国のパイレーツとは少しイメージがちがう。海とそこに属する島を領地とした武士だと考えるほうがいい。だから帰属する武将の命によって、他の武士と同じように戦場へ向かう。
この村上海賊というのは、元は後醍醐天皇の皇子を始祖に持つ。3つに分家しているが、そのうち二つは、この時代の毛利氏に帰属していた。ところがもっとも勢力の強い能島村上という一族は、どこにも帰属していない。その一族の娘である、景(きょう)という女海賊が主人公。
上巻の単行本だけで500ページほどある。そしてかなり古い言葉や地名が出てくるので、読み切るのにかなり時間がかかった。物語の感想は下巻を読んだときに総括するとして、上巻を読んで感じたことを書いておく。それは盲信することの恐怖。
織田信長は本願寺門徒の一向一揆に手を焼いていた。そしてその大本山である大坂本願寺を攻め落とそうとしている。ところがなかなか落とせない。本願寺の兵は、ほとんどが農民たち。ろくに刀を持ったことさえない。なぜそんな農民たちに、本職の武将が簡単に勝てないか。
一向門徒たちは、死を恐れていないから。本願寺にために死ぬことで極楽浄土に行くと盲信している。そのうえ、退却するものは地獄に落ちると僧侶に脅されているものだから、前に進むしかない。
織田の武将にしてみれば、殺しても殺しても、ソンビのように新手の農民が向かってくる。死を恐れないその行動は、常に死と向き合っている武士たちでさえ異様に写ったらしい。その様子を想像したら、怖くてまじで鳥肌が立った。
主人公の景は農民たちが僧侶に騙されていると知って止めようとするが、とても手をつけられない。上巻のラストはそんな恐ろしいシーンで終わっている。この上巻の後半に圧倒的な存在感を見せているのは、織田信長でも海賊たちでもない。一向門徒の盲信という、恐ろしいものだった。
さてさて、今夜から下巻を読む。物語がどのようになっていくのか、めちゃ楽しみだわ〜!
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