自我は単なる記憶でしかない
ボクが自分だと思っている要素は、単なる記憶の寄せ集めでしかない。その記憶があるからこそ、時間が連続しているように感じられる。朝起きて昨日のことを思い返したり、今日の予定をチェックするのは自我という記憶があるから。
逆に言えば記憶がなくなれば、自分だと思っているものが消えてしまう。つまり『ワタシ』という存在は、脳のなかにあるデータのようなもの。それゆえパソコンのハードディスクがクラッシュしたような出来事が起きると、人間はもはや自分を認識できなくなってしまう。
毎朝自分の名前を確認、初対面状態の母親に挨拶 “41年”を失った当事者に聞く「記憶喪失」
記憶喪失となった人へのインタビューをまとめた記事。小説の題材として使うことがあるので、こうした記事はできるだけチェックするようにしている。
ここで紹介されている男性は55歳。2006年に心筋梗塞となり13分も心停止した。どうにか一命をとりとめたものの、高次脳機能障害と診断された。55年の人生のうち、なんと41年分の記憶が消えてしまった。
この男性が大変なのは、病気をした以前の記憶が消える『逆行性健忘』だけじゃないこと。今日の経験が翌日にはわからなくなるという、『前行性健忘』にもなってしまった。新しい記憶を脳に残すことができない。
だから毎朝起きてやることは、大きく拡大した自分の免許証のコピーを見て、名前を確認することから始まる。毎日経験したことをすぐメモにすることで、そのメモを頼りにしてその日の行動を決めていくとのこと。毎朝新しい自分なので、顔を合わす母親は初対面状態になってしまう。
この記事を読むだけで、『自我』というのが記憶でしかないことがわかる。変な言い方になるけれど、映画の『マトリックス』のように事実ではない記憶を植え付けることで、誰かをまったく別人の『自我』として錯覚の世界に追いやることも可能なはず。
こんなことを考えていると、『自分』ってなんだろう? と思ってしまう。人間の記憶が捏造されるのは、すでに科学的に認められている。つまり自分だと思っている存在の一部は、捏造された記憶によって成り立っている可能性がある。
だとしたら記憶のなかの自分を固定化して囚われてしまうことは、『いま』の自分が成し得ることに制限をかけてしまうかもしれない。自分はこんな人間なんだから、あの夢についてはあきらめよう。そんなふうに単なるデータでしかない過去の虚像によって、未来への可能性を狭めていることもあるように思える。
自我が存在しないと、リンク先の記事の男性のように大変だと思う。だけどその自我が、単なる記憶であることを理解しておくことは大切だと思う。つまり自我なんて過ぎ去ったデータなんだから、新たなデータで上書きすればいいということ。
そうした意識を持って行動に移すことが生きることであり、努力というエネルギーの向けるべき方向を照らしてくれるんだと思う。
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