「エンタメ」を支えた天才たち
少し雲の多い神戸だけれど、行楽日和であることはまちがいない。市内の観光地は大勢の人だと思う。
そして関東ではディズニーリゾート、関西ではUSJというテーマパークは、とんでもない人でごった返しているはず。ボクなんか、想像しただけで卒倒しそうになるw
最近は大阪のUSJに押され気味のディズニーだけれど、やはり日本ではエンタメの元祖と言っていい。今年で日本での開業35周年を迎え、きっと園内は盛り上がっていることだろう。
今から35年前にどんなことがあったのか? その裏側が詳細に書かれた本を読んだ。
『ディズニーランドが日本に来た! 「エンタメ」の夜明け』馬場康夫 著とい本。
面白い本だと噂には聞いていたけれど、これほどとは思わなかった。職場でプレゼンをする機会がある人、あるいは接客業に関わっている人にとっては必読の本だと思う。ディズニーランドが日本にやって来るまでに、どれだけ多くの人が関わり、その努力が結集されたかを知ることができる。
その立役者は二人のプロデューサー。まえがきから抜粋してみる。
ひとりは小谷正一。小谷は、1949年、毎日新聞事業部長として、日本プロ野球パシフィックリーグの創設に深く関わり、1951年日本最初の民間ラジオ放送を興し、1961年広告の鬼・吉田秀雄に乞われて電通のラテ局長を務め、1970年の大阪万博でいくつかのパビリオンを手がけた後、第一線を退いた。
ふらりめは、堀貞一郎。電通時代の小谷の部下で、1960年代のテレビのヒット番組、『シャボン玉ホリデー』『11PM』の立ち上げに関わり、万博では小谷の片腕として活躍。後に、ディズニーランドを浦安に呼ぶ陰の立て役者となった。
とにかくこの二人はマジですごい。これだと見込んだことを具現化するパワーは、常人ではなし得ないものだと感じた。それは徹底的に相手の立場に立ち、どうすれば顧客に喜んでもらえるかを突き詰めたからだろう。シンプルだけれど、簡単なことじゃない。
小谷さんのエピソードで印象に残っているものがある。世界的に有名なパントマイムの名手を日本に呼んだとき、その妻を日本で接待した。部下をひとりつけて、銀座等で好きなように買い物をさせた。
そのとき部下に命じたのは、妻が買い物をしたとき、迷った商品をすべて控えておくこと。そして部下がその商品を報告すると、小谷さんはその商品をすべて購入して、離日前の妻にプレゼントとしている。
迷ったということは、欲しかったということ。だからそのすべてを持って帰ってもらおうとしたらしい。もちろん妻は大喜びして、夫のパントマイマーも気持ちよく仕事をしてくれた。
こんな逸話が、これでもかというほど登場してくる。ディズニーの経営陣を招いて堀さんが行ったプレゼンなんか、感嘆の言葉しか出てこなかった。堀さんは三井サイドで、ライバルは三菱。実は三菱のほうが動きが早く、富士山麓にディズニーランドを誘致していた。
ところがあまりに堀さんのプレゼンがすごいので、ディズニーの経営陣は感動して、三菱のプレゼンを最後まで聞くことなく三井との契約を決めている。いったい堀さんはどんな魔法を使ったのか?
気になる人は、ぜひこの本を呼んでほしい。業種に関わらず、人に何かを伝えることの大切さを教えてもらえるよ。そして、その手法に感動すると思う。
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