死と生きる
早いもので、今日で7月も終わり。まだまだ暑い日が続くけれど、確実に季節は進んでいる。
今月に入って新しい小説を書いている。今日の時点で5万字くらいだから、ちょっぴりペースは遅い目かなぁ。だけど毎日書くことで、その都度新しい世界へ誘われている。最初の構想では見えなかった世界が眼前に広がってくると、自分も物語と一緒に旅をしていることを実感できる。
これは日々続けることでしか得られない。言いかえれば、どれだけ『今日』に集中するかということ。
先日ある本を読んでいたとき、興味深い人間の心理が解説されていた。人間は年齢を重ねるほど、未来ではなく現在に意識が向くらしい。若い人は10年後や20年後の展望を語ろうとするけれど、年配の人は『今』の出来事や人間関係に集中しようとするとのこと。
それは人生の「終わり」が見えているから。10代や20代の人は、まだ人生が永遠に続くように思う。だけどボクのように50代になるとそうはいかない。少なくとも自分がこれまで生きてきたと同じ時間が、未来に用意されていない可能性のほうが高い。だから今あるものを、大切にしたいと感じる。
だけど若い人でも、人生の最後を考える必要に迫られる場合がある。病気の場合は、万が一の治療の可能性に心が向く。だけど絶対にそんな希望を抱けない人がいる。
それは死刑囚。
フィクションではなく、人間と人間が全身全霊でぶつかり合った書籍を読んだ。
『死と生きる 獄中哲学対話』池田晶子 睦田真志 共著という本。
池田晶子さんは哲学者として、多くの著作を残されている方。だがもうひとりの睦田さんは死刑囚だ。
『SMクラブ下克上殺人事件』で検索すれば、その詳しい事件の状況がわかる。1995年に起きた事件で、睦田さんはまだ20代だった。
なぜこの二人の対話が始まったのか、池田さんがこの本で書かれたあとがきがわかりやすい。引用させてもらう。それは1998年のことだった。
以下抜粋〜
睦田真志という名前の人からの手紙が、「新潮45」編集部経由で、私の許へ届いたのは四月のことだった。差出人の住所には、「東京拘置所」とあり、書面には、二名の強盗殺人、死体遺棄、銃刀法違反その他で死刑を求刑されており、「おそらく死刑」と書いてある。
その彼が、判決を前にして、私に「御礼」が言いたいという。逮捕され、拘禁されて初めて罪の重さに気がついた。罪の重さに苦しみ、罪の重さに怯え、悩みに悩んでいたときに、私の著書に出会った。その著書というのは、私が現代ふうにアレンジして書いた、かの「死刑囚」ソクラテスの対話篇、「さよならソクラテス」である。彼はそこに書かれている言葉を読み、「何かがわかった」。
続けて、原典「ソクラテスの弁明」を読み、「はっきりとわかった」。
「ただ生きることではなく、善く生きることなのだ」
だから、判決があっても控訴せず、このまま善く生きることで死んで行ける、と書いてある。
これに対して、私は異を唱えたのである。もしも本当に善く生きる気があるのであれば、自分が知り得た真理と幸福を、他人にも知らしめるべきではないだろうか。したがって、「控訴せよ」。
〜以上抜粋。
睦田さんは最初は控訴を頑なに拒んだ。だけど池田さんとの手紙のやりとりで、自分のできることをやろうと決心する。そして控訴した。
なぜなら控訴しないで死刑が確定すると居場所がわからなくなり、親族以外と手紙がやりとりできなくなるから。
とにかくすごい本だった。読みながら心が震えた。とても簡単に感想が書ける著作ではない。まさに斬り合いの真剣勝負で、二人が手紙のやりとりをしながら返り血を浴びているような状態だった。それほど素晴らしく、心に響く。
ボクは死刑制度に反対している。冤罪が存在する限り、死刑はやるべきではない。この本を読んで、さらにその思いを強くした。
死と生きること、そして善く生きることについて、二人は語りあっている。ぜひ、読んだことがない人はこの本を手にとってほしいと思う。
最終的に睦田さんは、2005年に最高裁の上告が棄却されて死刑が確定した。もちろん本人は最初から罰を受ける気持ちだったから、そんなことで悲しんではいないだろう。そして2008年に死刑が執行された。
ところが池田さんのことを調べていて、驚く事実を知った。彼女は病気を患い、2007年に47歳という若さで亡くなっている。なんということだろう。
死刑囚の睦田さんよりも、池田さんのほうが早くこの世を去るなんて。絶句してしばらく言葉が出なかった。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。