絶望がもたらすのは神か悪魔か
ボクは『絶望』という言葉をあまり使いたくない。この言葉は重い。そしてその重さは人によってちがう。
自分に起きた出来事に対して軽々しくこの言葉を使うことは、本当に望みを失っている人に失礼だと感じるから。辛いけれど時間をかければまだ頑張れると思えるような気がするなら、絶対に絶望という言葉を使うべきではない。ボクは自分にそう言い聞かせている。
だけどこの先の人生で、その二文字を言葉や文章として発する出来事が起きるかもしれない。そのときボクにもたらされるのは神だろうか、それとも悪魔だろうか?
絶望から抜け出すために神に救いを求める人がいる。信仰があってもなくてもいい。とにかく人智を超越した存在に手を差し伸べて欲しいと願う気持ちはわかる。
その一方で、その絶望をもたらした存在に対する復讐に燃える人もいる。たとえ悪魔に魂を売り渡したとしても、復讐を成し遂げたいと願う人の気持ちをボクは否定できない。
実際にそのときになってみないと、ボクは答えを出せない。平穏なときにどれだけ想像しても、それは現実的ではないから。やってきた絶望がどの程度自分を打ちのめすかによって、答えはちがってくるだろう。
なぜこんなことを考えているかというと、ある小説を読んだから。
『心霊電流』上巻 スティーブン・キング著という小説。翻訳本は今年の1月に出版されているので、著者の作品としては比較的新しいものだと思う。
主人公はジェイミーという男性。田舎町に住む彼の少年時代から、ギタリストとしての現代までが書かれている。そのジェイミーに大きな影響を与えたのが、チャールズという牧師。ジェイミーが暮らす街に、新任の牧師として美人の妻と幼い子供とともにやってきた。
チャールズは敬虔な牧師でありながらも、科学に強い関心を持っている。子供の宗教心を育てるために、電気じかけの人形を作るような人物だった。それは電気治療の分野にも及び、ジェイミーの兄が怪我で声が出なくなったとき、電気を当てることで見事に回復させている。
ところがある日、チャールズ牧師に悲劇が訪れる。それはまさに絶望としか言いようのないものだった。女優のような美人で優しい妻と2歳の息子が、てんかんを起こしたドライバーによって命を落とした。妻も息子も、顔の半分を失うほどの恐ろしい事故だった。
チャールズに訪れた絶望は、彼を神の世界から引き離した。いや、むしろ神を恨んだと言ってもいい。日曜のミサで神の不在を嘆き冒涜したことで、教会を追放される。ボクはこのシーンを読んで、チャールズに同情せざるをえなかった。それほどの絶望だったと思う。
やがてジェイミーが36歳になったとき、彼はチャールズと再会する。チャールズはイベント会場で不思議な電気写真を撮影するというショーを行っていた。そしてそれは、チャールズが神に取って代わろうとする研究のための資金集めだった。
ミュージシャンでありながらヘロイン漬けになっていたジェイミーは、チャールズから治療を受ける。頭に電気を通されることで、一瞬で麻薬依存症から抜け出すことができた。
だけどその治療には恐ろしい副作用があった。ジェイミーはそれがきっかけで亡霊に悩まされるようになる。なかには自ら命を断つ人まで出てきた。不審に思ったジェイミーは、チャールズの行っている治療の真相を探ろうとする。
ここまでが上巻のストーリー。今日から下巻を読む。おそらく絶望したチャールズは、悪魔に魂を売り渡したのだろう。神を捨てることで、自らが神になろうとしているように思う。さて、その結末やいかに。楽しみだなぁ。
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