気象は人間の意識を反映してる?
今朝の神戸は雲が多いながらも日差しが出て、いよいよ梅雨明けの雰囲気になってきた。今年は観測史上もっとも遅い梅雨入りで、かつ気温の低い日がずっと続いていた。
エアコンがない我が家は、いつもなら窓を24時間は全開にして、扇風機も忙しそうに首をふっている。去年の今ごろは記録的な酷暑だったので、1年前のブログを見ているとほぼ死んでいるwww
ところが今年の窓は半開だし、扇風機も今日の朝になってようやく準備したほど。朝晩がかなり涼しいので、余裕で過ごすことができる。いよいよ本格的な夏がやって来るだろうけれど、おそらく去年のようなことはなさそうな予感がしている。助かるよね。
ところが外国はちがう。ニューヨークでは最高気温が35度を超えている。ヨーロッパでは6月からの熱波がいまも続いているらしい。フランス南部のガラルグルモンテュでは、6月の下旬に45.6度という観測史上最高の気温を記録している。
グローバルな視点で見ると、もしかしたら日本の涼しさも異常気象なのではないだろうか? いやそもそも異常という概念は捨てるべきではないだろうか?
この夏の異常気象は、気候が「予測不能」な段階にきたことを象徴している
今年の世界の異常気象を総括した記事。もはや気候が「予測不能」となっていて、スーパーコンピュータを使っても未来の気象を予測できない状態が続いているとのこと。50年に1度というような異常気象が毎年発生することで、もはや何年に一度という『定常性』が崩壊しつつある。
ここ数年に感じていたことだけれど、気象に関して『異常』という言葉は使用不能になっていると思う。過去の定常性を記憶から取り払わないと、常に『異常』だと言い続けるだけのことになる。異常気象と呼ばれているものが、通常気象であることを認識するべき時代なんだと思う。
ボクが常々感じていたことがある。非科学的で何の根拠もない考えなんだけれど、漠然と思っていることがある。
それは、気象というものが、人間の集合意識の反映ではないだろうか、ということ。
極端な方向に振れている現在の気象が、人類の意識を表現しているような気がして仕方ない。誤解しないで欲しいのは、異常気象と呼ばれてるから人間の意識が異常なんだという意味じゃない。
異常という言葉を使うのではなく、『極端に振れている』という言葉のほうが適切だろう。つまり人間の意識の二極化が進んでいるように思う。どっちつかずのグレーな状態はなく、白黒が明確に分かれつつあるように感じている。
そして一人の人間の心でさえ、その白と黒が常に激しく入れ替わっている印象が強い。だから異常だとか正常だとかいう言葉が、本来の意味を持たなくなっている。絶対的な物差しが消え、極端に振れた相対的な世界になっているような気がするなぁ。
だから以前の古い物差しは捨てるべき。大きく揺れ動く自分の感情を自覚しつつ。その振れ幅に対応できるバランス感覚が、これかの時代は求められているんだと思う。それは気象も同じで、過去の感覚では異常であることが通常なんだと理解しつつ、適切に対応していくことが必要になると思う。
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