SOLA TODAY Vol.905
多様性を容認するということは、白と黒を受け入れるだけでは不十分だと思う。その中間にあるグレーも含めてこその多様性だろう。
白でも黒でもないグレーという曖昧な領域を受け入れることなしに、多様性の容認が達成されることはない。
ミュージシャンのサム・スミスが、曖昧であることの意義を語っている。
サム・スミス、性別を限定しないノンバイナリーに対する自身の見解を語る
彼の歌を聴いたりミュージックビデオを見たことがある人なら、サム・スミスというアーティストが独自の空気を持っているのがわかるはず。見た目は男性だけれど、歌い方はファルセットを多用していて女性っぽく感じる。男でも女でもない曖昧な立ち位置で、ミュージシャンとして自分の世界を表現していることがわかる。
サム・スミスはノンバイナリー(自身のジェンダーを男性や女性のどちらかに限定しない)であることを表明している。LGBTについて記事になると、性同一性障害的をメインにした語り口になることが多い。その精神には、男か女かという二者択一の世界が根を張っている。
だけどサム・スミスはこう言っている。
「自分は男性でも女性でもない、その間に位置していると思ってる。すべてはグラデーションの中にあるわけでね。性的区別も同じことだよ」
彼の言うとおりだよね。人間ほどグラデーションな存在はないと思う。根っからの善人もいなければ、悪でしかない人間もいない。どんな人にも善と悪が混在している。だからこそ人間社会にはドラマが生まれるんだと思う。
人間というのは、何かにつけて白黒をつけたくなる生き物。好き嫌い、いい悪い、国籍、性別、宗教等によって、人間をどこかのエリアにはめ込んでしまおうとする。そうして他人を勝手に判断してしまう。
だけど自分も含めて、誰もがグラデーション的な存在のはず。ボクのようなオジさんだって、どこか女性的な部分があるはず。天使のようなところもあれば、悪魔のようなことを考えていることもあるだろう。
曖昧さと曖昧さが複雑に混ざり合うことで、現実世界は成り立っている。それゆえ予想できない不幸が起きることもあれば、思いもしない喜びや感動を体験することもある。それは人間が決まりきった存在ではないからだろう。
本当の多様性とはグラデーションを認めることなんだと、この記事を読んで改めて気づかされた。
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