人の一面だけを裁く愚かさ
他人の一面だけを見て、この人は悪人だと断定することは多い。ほとんど無意識に、ボクたちはそれをやっている。まるで最高裁判所の判事のように。
ネットで炎上したとき、そんな自称裁判官が好き勝手に意見を述べて、名奉行のような大岡裁きを下そうとする。でもよく考えると、それがいかに愚かで恐ろしいことかわかる。でもやってしまうのが人間なんだよね。
たとえば京都アニメーションを放火して34人を殺した容疑者。意識を戻して責任が取れると判断されたら、おそらく確実に死刑判決が出るだろう。税金を使って怪我の治療をして、同じく税金を使って命を奪う。
そんなことならあんな悪人を治療せずに死なせたらいい、いやいや生かして罪を償わせるべき、というような両論が飛び交っている。もちろんあの行為に対して、厳罰が下されるのは仕方ないだろう。ボクだってそう思う。
ただ一人の人間として容疑者を見た場合、やや複雑な気持ちになる。どのような家庭で育って、どんな子供だったのか知らない。だけどああなるまでに、なんらかの事情があったかもしれない。可愛い産声をあげて、誰かに心から愛されていたかもしれない。
もしかしたら小さな命を助けたことがあったかも。誰かを勇気づけたことがあったかも。漠然とだけど、そんなことを考えてしまう。先日アメリカの殺人鬼の父の手記を読んだけれど、子供のころの犯人は愛らしい普通の赤ちゃんだった。それだけにその後のことを思うと、なんとも言えない気持ちになる。
昨日読了した小説でも、同じ想いでいっぱいになった。どうして人間は一面だけを見て裁いてしまうのだろう。そして裁かれた人たちは、どうすれば罪を償えるのだろう。そんなことをずっと考えてしまった。
『悲しみの歌』遠藤周作 著という小説。新宿を舞台にした群像劇のような小説。それぞれのドラマに登場人物が巧妙に関わっていて、昭和50年代の世界に懐かしさを感じた。小説が出たのはボクが15歳のころだから、その空気感はなんとなくわかる。
この物語で中心となるのは、勝呂という医師。彼は戦争中に捕虜の人体実験に関わり、戦犯として裁判を受けている。そして有罪となって刑期を終えている。人の命を助けるために医者になったのに、戦争に巻き込まれることで抗いようのないことに手を出してしまった。
そのときに背負った十字架から、勝呂は死ぬまで解放されることはなかった。新宿にやってくるのは中絶を求める女性たち。相手の気持ちを察すると無視するわけにはいかない。だけど命を助けるはずの医師が、命を奪うことに加担している。彼には絶望しかなかった。
そして末期癌の患者を抱えることになる。天使のようなフランス人であるガストンの願いを聞き入れたから。無償でその患者を診察して入院させるけれど、待っているのは死しかない。そのうえ義憤に燃える若い新聞記者によって、すでに裁きを受けた人体実験のことを記事にされる。
現在のネットの炎上と同じで、そうなると新宿で開業することができない。そして死を望む老人を苦痛から解放してあげるため、勝呂は安楽死に手を貸す。そのことをかぎつけた同じ記者に追及される。勝呂が自殺を決意したとき、ボクはそれを止める気持ちになれなかった。あまりに気の毒すぎて。
遠藤さんという作家がクリスチャンなのは有名。だけど彼は、もしかしたら『神の不在』に対して憤りを感じていたのかも。高校生にときに読んだ『沈黙』という小説でもそのことを感じた。とても切ないけれど、人の一面を裁くことの愚かさを痛感させられる素晴らしい物語だった。
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