死を意識した時、見えてくるもの
ボクは50代も半ばになって、以前より強く死を意識するようになった。別に病気を抱えているわけじゃないし、死にたいと思うほど落ち込んでもいない。
いたって健康で、普通に暮らしている。深刻な病気や人生の苦悩と向き合っている人たちに比べたら、幸せな人生だと思う。
それでも最近は死を考えることが多くなった。死後世界や生まれ変わりのことは置いておいて、死がこの現実世界からの消滅であるのは事実。その瞬間がいつやってくるかわからない。だけど確実にやってくる。
最近は夜になって布団にもぐり込むと、その瞬間のシミュレーションにトライしている。
もちろん本当の意味で死を意識するなんて無理。今日を最後の日だと思って生きたい。そう考えているのは事実だけれど、これはなかなか難しい。ふと気がつくと、明日以降も人生が存続するという前提で、仕事をやって予定も組んでいる。
だからせめて眠る前だけでもいいから、死を強く意識するようにしている。
『このまま目を閉じて眠れば、もう二度とこの世界に戻ってこられない』
そう思って、精一杯に想像力を働かせている。妻とは話せないし、ミューナを抱くこともできない。書きかけの小説はそのままだし、選考に残っている小説の結果も意味がなくなる。仕事で世話になっている方たちに、お礼の言葉をかけることもできない。
本気で思うのは難しいとしても、想像力を働かせることは可能だろう。そうすると見えてくるものがある。
それは自分の人生の満足度のようなものだと思う。もちろん人によっては絶望も存在するだろう。
そこにあるのが満足であっても絶望であっても、「まぁ、いいか」と思えることが多ければ、まずまずの人生なんじゃないだろうか。満足することは続編も期待できるけれど、執着していないのなら手放すことができるはず。
絶望であっても、「まぁ、いいか」と思えるのなら、ある意味で死は救済かもしれない。辛かったけれど、これ以上悩む必要はないな。そう思える人は、まだどこかに救いがあるような気がする。
だけど「まぁ、いいか」と思えないことが多いと、死はかなりキツい。満足していることに執着していれば、それを失うことの恐れに圧倒されるだろう。
絶望だって執着が生じる。それは自分にその想いを与えた人間に対する復讐のような感情だと思う。このままでは死ねない、という強烈な想いを残すのはキツい。
つまるところポジティブでもネガティブでも、「まぁ、いいか」と思えるものを増やしていくことがベターなのかな? ボクはそんな風に思う。
それは諦めや惰性のような受け身の感覚じゃない。もっと積極的な意味で「まぁ、いいか」と途中終了を受け入れることだと考えている。
その感覚を『受容』というのではないだろうか? 人生というのは、より多くの『受容』を積み上げていくものだと思う。
そんなことを考えながら、今夜もボクは死をシミュレーションするのだろう。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。