それが本物だと思う瞬間
いま読んでいるスティーブン・キングの小説の冒頭に、彼が自分の3人の子供たちへ向けた言葉がある。それがとてもいい。
『子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ───魔法は存在する』
なんだかいい言葉だよね。言うまでもなく小説というのはフィクションで、言わば嘘を書いている。そういう意味では、ボクなんか文章を通じて毎日嘘をつづっていることになる。
だけどその嘘のなかに真実がある、とスティーブン・キングは自分の子供たちに語っている。ボクもそう思う。その真実を書きたいが為に、嘘でコーティングして物語を組み上げていく。
つまり嘘のかたまりのなかで本物であるものを発見したとき、魔法が働くんだと思う。スティーブン・キングはそう言っているのだろう。
だったら、人はどういったときに何かを本物だと判断するんだろう? それが本物だと思う瞬間があるはず。
それはその人にとって、何かを『信じた』瞬間だと思う。作り話だと思っていても、その物語のエッセンスを『信じる』ことができたとき、その作品はその人にとって本物になるんだと思う。
今日ある映画を観ていて、同じことを感じた。
『おしゃれ泥棒』(原題:How to Steal a Million)という1966年のアメリカ映画。映画のタイトルは知っていたけれど、観たのは初めて。オードリー・ペプバーンとピーター・オトゥールが主演している。
コメディ映画なんだけれど、ちょっとしたアクション映画のようでメチャメチャ面白かった。オードリーが演じるニコルの父は、天才的な絵画の贋作者。ゴッホでもモネでも、彼の描いた絵が本物としてオークションにかけられていく。
そんな父に足を洗うようにニコルは説得するけれど、どうしても天才の父は聞き入れない。ところが事件が起きる。美術館に提供したヴィーナス像が、保険がらみで科学調査をされることになった。もし贋作だとバレたら、父は刑務所行きになってしまう。
そこでニコルはあることで知り合いになった泥棒に、そのヴィーナス像を盗んでもらうように依頼する。その泥棒のシモンを、ピーターが演じている。だけどシモンの正体は泥棒ではなく、贋作発見の専門家である探偵だった。そうして素人二人の、大泥棒劇が始まる。これが最高に楽しい。
1966年なんだけれど、この美術館には赤外線の防犯装置が設置されている。二人がその防犯装置を突破するのに使うアナログ的な手法に大笑いする。またそれが割と理にかなっているから面白い。なんせ自分の家にもともとあった物を盗むんだから、泥棒と言っていいのかどうか微妙なんだけれどね。
この映画では何が本物かが明確に示されている。それは購入する人が本物だと信じたかどうか。買った人が本物だと思っていたら、それで幸せだということだろう。もちろん天才画家が描いた贋作という条件付きだけれどね。
そんな贋作発見の専門家であるシモンは、ニコルという自分にとって本物の女性を発見したという物語。このころのピーターはマジでハンサムだよなぁ。『ラストエンペラー』のときの彼を忘れてしまう。『アラビアのロレンス』よりも、この役のほうが素敵だった。
恋愛コメディーなんだけれど、泥棒映画としても十分に楽しめる作品。まるで『ミッション・インポッシブル』を観ているような気分だった。素敵な映画だったなぁ。
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