『許し』は自分のためなのかも
凶悪犯罪に関するニュースを見ていると、いつも心を痛めることがある。それは被害者家族の怒りと悲しみ。
家族や友人を無残に殺された経験がない人でも、それらの苦しみがどれほどのものか想像はできるだろう。犯人を許せないという気持ちは、遺族の立場にしてみれば当然だと思う。
この「許せない」という気持ちは、時間の経過にともなって消失するものではないらしい。かなりの年数が経った事件でも、犯人に対する怒りは静まるどころか、かえって炎の勢いが増しているように感じることがある。
わずか数日でも辛いのに、それが10年以上も続くとしたら地獄だろう。もしかしたら犯人に死刑が執行されても、その地獄は続くのかもしれない。だとすれば、どうすれば被害者の家族は救われるのだろう? どうすれば犯人を許すことができるのだろう?
その答えになるかもしれない記事を読んだ。
オウム真理教が関わった松本サリン事件というのを覚えているだろうか? 30代以上の人なら記憶に残っていると思う。長野県の松本でサリンがまかれ、死者8人、重軽傷者約600人を出したという恐ろしいテロ。
そのとき、河野義行さんという人が犯人だとして疑われた。奥さんもサリンの被害にあって14年間も意識を失った末に亡くなっているというのに、彼は警察とマスコミによって犯罪者扱いされてしまった。完璧な冤罪だった。
この河野さんが先月、朝日新聞のインタビューに答えている記事。犯人扱いされたことで、どうして警察やオウム真理教の人たちを『許す』ことができたのか? そのことについて答えておられる。ボクは彼の言葉に、『許し』という行為の本質を強烈に感じた。記事から抜粋してみよう。
殺人者の濡れ衣をいつか晴らせると信じていましたか、という質問に対して、
「事件の1週間ほど後、高校1年生だった長男に私は『世の中には誤認逮捕もあるし、裁判官が間違えることもある。最悪の場合、お父さんは7人を殺した犯人にされて死刑になるだろう』と言いました。もし死刑執行の日が来たらお父さんは執行官たちに『あなた方は間違えましたね。でも許してあげます』と言うよ、とも」
そしてこう続けておられる。
「子どもには『人は間違うものだ。間違えているのはあなたたちの方なのだから許してあげる。そういう位置に自分の心を置こう』と言い聞かせました。意地悪をする人より少し高い位置まで、許すという場所まで心を引き上げようということです。悪いことはしていないのだから卑屈にならず平然と生活しようとの思いでした」
『許す』という行為が、河野さんの精神的な支えになっていたとのこと。そうしないと子供たちを抱えて生きていけなかった、と語られている。
『許す』という行為によって自分の心の位置を高くすることで、河野さんはどうにか精神の均衡を維持されてきたのだと思う。これは宗教でいうとことの『許し』にもつながるものだと思う。
『許し』は許される人のためにではなく、許す人のためなのかもしれない。『許す』ことによって救われるのは、他人ではなく自分なんだと思う。
ただしこの境地へと至るのは、並大抵のことでは難しいだろう。この段階へシフトするためには、多大なエネルギーを要すると思う。だからほとんどの人は、『許せない』心を抱えたままで生きていくしかないのかも。
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