日本製のワクチンができない理由
新型コロナウイルスの日本製ワクチンは、開発中という記事を見るだけでまだ実用化に至っていない。だから輸入に頼るしかない。
先日ある記事を読んだ。なぜ日本製のワクチンができないのかについて考察されたもの。
その主旨は、ワクチンに関してマイナスイメージとなる訴訟が続いたというもの。副作用がマスコミで取り上げられることで、義務化されていたワクチン接種が任意となった。そのうえ薬害エイズ訴訟が、ワクチン製造を遅らせることに影響したとのこと。
詳細は省くけれど、結果として『ワクチン=悪』という図式ができてしまい、日本でワクチンを開発することが難しくなった。規制が厳しくなり認可が受けられない。1980年ころは世界にワクチンを供給してた日本が、一気に輸入国へと転換していった。
その一方で、海外では新しいワクチン研究が進み、エボラ出血熱のワクチンまで開発されている。優秀な科学者は日本で研究することに限界を感じ、多くの人が海外に流出している。
この記事を読んだとき、なるほどと感じた。ただもっと根の深い理由が明確にされていない気がしていた。なぜワクチン開発の足を引っ張るような訴訟が次々と日本で起きたのか? その具体的な事実より、日本人の精神性に原因があるような印象を拭えなかった。
そして昨日ある記事を読んで、ようやくその本質が見えたような気がした。
日本経済、低迷の元凶は日本人の意地悪さか 大阪大学などの研究で判明
この記事はワクチンではなく、なぜ日本の経済が低迷しているかを考察したもの。その精神的な理由として、大阪大学等の研究機関がある結果を導き出した。
それは『日本人の意地悪さ』というもの、
なんとなく嫌な表現だよね。だけどリンク先の記事を読むと納得できる。わかりやすくいえば、『日本人は他人の成功を素直に喜べない』ということ。
欧米だと個人主義が浸透しているので、他人は他人、自分は自分という意識が強い。だから他人の成功に嫉妬することはあっても、足を引っ張るようなことはしない。むしろ健闘を讃えて祝福する。
どうも日本人はそうしたことが苦手らしい。学校教育がそのことを顕著に示している。飛び抜けることも、落ちこぼれることも嫌う。みんなそろって同じように進みましょう、という空気感がある。
要するに他人は他人だと割り切れない。自分の一部のように感じている。それがうまく働けば連帯感の強化になる。だけどマイナス面が強調されると、他人の成功を阻止しようという行動に出てしまう。
新しい発見や技術が開発されても、嫉妬が先に立ってケチをつけたくなる。マイナス面を探して指摘する。戦後復興のような一致団結するときには、この民族性は素晴らしい能力を発揮する。
だけど社会が成熟化してくると、格差を容認できないことで他人の足を引っ張ろうとする。ワクチン訴訟に理由があることはわかっている。だけどボクは、その根底に『日本人の意地悪さ』が潜んでいるような気がしてならない。否定できないものを感じるだけに辛いよなぁ。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。