フィクションを信じる力
人類の進化という過程において、類人猿と分かれた大きな理由は、フィクションを信じることができる能力だと言われている。
実際に起きてはいない架空の物語を信じることで、未来を見渡すことができたのかもしれない。
客観的に考えてみれば、何が真実かなんて本当はわからない。人間は自分が真実だと思うことを、そのように受け取っているだけ。もしかしたら『自分』という存在そのものが、壮大なるフィクションかもしれない。
そんなフィクションを信じる力をテーマにした、とても不思議な映画を観た。
『バロン』(原題: The Adventures of Baron Munchausen)という1989年のイギリス映画。
監督は不思議な世界を撮影するのが得意な、テリー・ギリアム。『未来世紀ブラジル』や『12モンキーズ』という映画が強く印象に残っている。
ミュンヒハウゼン男爵ことバロンは18世紀の実在の人物で、彼を主人公にしたドイツ民話に『ほら吹き男爵の冒険』というものがあるらしい。それを映画化した作品とのこと。
舞台は18世紀後半のドイツ。トルコ軍の攻撃にさらされていて、街は多くの戦死者であふれている。そんななか、『ミュンヒハウゼン男爵の冒険』という舞台が上演されていた。大勢の観客が詰めかけている。
その最中に、俺こそが本物のバロンだという老人が舞台に乱入する。そして自分の過去の冒険によって、トルコから攻撃を受けることになったと謝罪する。バロンの家来は、ロケットのように走るバートホールド、千里眼で射撃の名手であるアドルファス、驚異的な肺活量を持つグスタヴァス、怪力の大男であるアルブレヒトの4人。
現代的に言えば、超能力者集団のようなもの。あまりにもすごい能力なので、お腹を抱えて笑ってしまう。
バロンは戦争に至った理由を説明すると同時に、散り散りになった家来を再び集めて、トルコ軍を追いやるために旅へ出る。そのために月まで行ってしまうし、化け物のような魚のお腹に入ったりもするw
やがて家来は見つかるが、誰もが老人になっていて能力を思うように発揮できない。そんな頼りないメンバーが大冒険を繰り広げながら、ついにトルコ軍をドイツ領から追い出すことに成功する。住民の歓喜の声に迎えられてバロンは広場まで行進するが、その途中で狙撃されて命を落としてしまう。
ここまでの話はバロンが劇場で話したフィクションだった。映画のラスト近くでそのことがわかる。やはり「ほら吹き男爵」なのだろう。ドイツの統治者は相変わらずトルコ軍の脅威を訴え、城門の外へ出ないように民衆に釘をさす。
ところが劇場にいた人々は、バロンのフィクションを信じた。それが物語だとは思えず、誰もが城門の外に出ようとする。ドイツ軍は制止するが、バロンに率いられた民衆を止めることができない。そして城門が開かれると……。
バロンのフィクションと同じように、トルコ軍が姿を消していた。そしてそれを確認するかのように、本物のバロンは透明になって姿を消す。
とまぁ、こんなファンタジーの物語。もちろん現実に起きたことではない。
でもフィクションを信じる民衆のパワーに、ボクはとても感動した。
誰もが平和を望んでいる。戦争のない世界を切望している。それが現実でないとわかっていても、バロンの物語を信じてみたいと思うのだろう。映画のなかではその民衆のパワーが、平和という現実を引き寄せる。
現代社会を地球規模で見た場合、決して平和だとは言えない。自衛隊が派遣されている南スーダンでは内戦が続いている。中東では戦争が終わらず、テロによる攻撃は後を絶たない。
でもこの世界に住んでいるボクたちが平和を信じなければ、現実世界に平和はやってこないと思う。たとえ現代社会の平和がフィクションであっても、まずはボクたちが平和を信じなければいけない。そうでないと、本当の平和はやってこないと思う。この映画を観て、そのことを強く感じた。
ちなみにちょっとした楽しみがある映画だった。月の王として、ブレイクしたころのロビン・ウィリアムスが出演している。犯罪者の役で、あのミュージシャンのスティングが出ていたのはビックリ!
そしてまだ若いユマ・サーマンがとても新鮮だった。『パルプ・フィクション』や『キル・ビル』のころはちょっと癖のある顔立ちで苦手だったけれど、この映画のころはめちゃ可愛いと思った。まぁヴィーナスの役だったからかもねw
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
コメント (0件)
現在、この記事へのトラックバックは受け付けていません。
コメントする