SOLA TODAY Vol.831
50代後半のボクは、まだ『老い』を実感する年齢ではない。先日もブログで書いたとおり、自意識としては30代あたりをさまよっている。
けれども『老い』から逃げることはできない。どれだけ足早に去ろうとしても、影のように背中へ張りついてくる。そして不慮の事故や災難を避けたとしても、いずれ身体の機能が衰え、最終的には死を受け入れざるを得ない。
そう考えると、どのように『老いる』かについて意識しておくべきなのだろう。そんな生き方のヒントを、人生の先輩が語ってくれている。
それは作家の筒井康隆さん。ボクが中高生のころ、彼の小説にドップリとハマってしまった。とにかく奇想天外な発想を持たれている作家で、小説を読んで爆笑しながらも、世界に対する著者の視点の鋭さにどことなく恐怖と尊敬を覚えた。この記事を読んで、今でもその感覚は健在なんだと感じた。
『勘違いしてはいけない。薄汚い老人になるのがいやなら若作りしろなどと言っているのではない。老人になるということは若さによる美しさから遠ざかることなので、それぞれが老人独特の美しさを見出さなければならないと言っているのである』
いきなりこんな文章から始まる。若い世代についていこうとしても無駄だ、と筒井さんははっきりと述べられている。それよりも老人独特の美しさを見出すべきだ、と。
それでは老人の美学とは、どうすれば見つかるのだろうか?
筒井さんはこう述べている。『老人の美学とは実は孤独に耐えることなのである』
なんだかカッコいいよね。筒井さんに言わせると、孤独に耐えられなくなった老人が、老醜をさらしてしまうという理屈になる。
『出て行くと余計なことを言いたくなる。誰かの言うことすることについていやそれは違うと自分の意見を主張したくなる。ここから老害というものが始まるのである。しゃしゃり出たくなる欲望を抑え、用もないのにうろちょろせず、じっと我慢して孤独に耐えるのが老人の美学なのだ』
うん、うん、たしかに老害というのは、こうして発生するのかもしれない。
でも孤独というのは辛い。その辛い孤独に耐えられるということは、それに値する何かを持たなければいけない。それはなんだろう?
ボクは『受容』だと思う。自分の人生を振り返れば、いいことも悪いこともあったはず。後悔することもあるだろうし、自信を持って満足できる成果もあるだろう。それらのものを二元化して選り分けてしまうと、嫌なことや後悔することがクローブアップされてしまう。
そしてそれを取り繕おうとして、孤独を打ち破ってしまう。自分が正しかったと証明したいがために、老害を撒き散らすことになるのだろう。
だけど清濁併せ吞むことで『受容』を突き詰めれば、孤独に耐えうる『何か』が生まれそうな気がする。それはある種の諦めかもしれないけれど、老人だけが持ちうる美点のようにも思える。
まだ実感がわかないことだけれど、少しずつ『老い』について考えてみたいと感じる記事だった。
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