北条政子は本名じゃないそう
遠い過去の庶民生活は歴史に残らない。これは歴史家の共通見解とのこと。普通に考えれば理解できる。
現代の歴史家が昨年から今年に起きたことを歴史書に書き残すとすれば、その多くが新型コロナウイルスやロシアによるウクライナ侵攻になるだろう。その歴史家が何を食べたとか、どんな服を着ていたかなんて書かない。歴史に残されるのは誰もが驚いたり注目することだけ。日常生活で当たり前となっていることをわざわざ記録に残さない。
だからボクたちが学校で学んでいる歴史のほとんどが、その当時に起きた特殊な出来事だということ。庶民の日常生活を知ろうとしたら、日記のようなものを調べるしかない。だから南北朝時代を生きた吉田兼好の『徒然草』は、庶民生活を知ることのできる貴重な資料だといえる。
そんな過去の習慣が考慮されず、当たり前のように事実として残されているものがある。ボクも知らなかったので驚いた。
田舎豪族の娘から「日本のラスボス」に…北条政子が源頼朝の死後に「大権力者」になれたワケ
その事実とは、現代人が北条政子の本名を知らないということ。今年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』で、北条政子は主人公の北条義時の姉であり、源頼朝の正室として準主役のような役どころ。のちに尼将軍として、承久の乱に際して坂東武士を鼓舞する役目を担う女性。
大泉洋さん演じる頼朝は当然のように、「政子、政子」と妻に呼びかける。小池栄子さん演じる政子もその呼びかけに応える。だけど頼朝が存命中に妻を政子と呼ぶことはなかったはずとのこと。なぜなら弱小地方豪族である北条氏の娘が、◯子という名前を名乗るなんて考えられないから。
◯子という名は、皇室等の貴族に使用された高貴な名前。ボクの世代の同級生たちの多くは◯子という名前だけれど、中世のころは庶民が使う名前ではなかった。そもそも貴族であっても、『誰々のむすめ』という呼称で記述されている。そんな時代の豪族に、◯子という名前を使うことは考えられないそう。
政子となったのは頼朝の死後。3代将軍の実朝に子供ができない。そこで鎌倉幕府としては京都から4代将軍を迎えることにした。白羽の矢が立ったのは後鳥羽上皇の皇子。その大任を任されたのが政子だった。
京都で貴族相手に折衝するためには貴族風の名前が必要。彼女の父親は北条時政だから、その一次を取って政子にしたらしい。貴族でも同様の名付け方をする。長女だから時子でいいはずなんだけれど、平清盛の正室が時子だったので、政子にしたのだろうという推測。
北条政子という名前は、現代人の頭には完璧に刷り込まれている。もちろん彼女の晩年にはそう呼ばれていたのだろう。だけど頼朝や政子の家族たちは、きっとちがう名前で彼女を呼んでいたはず。ところが『吾妻鏡』等の歴史書が書かれたのは後年だから、政子という名前しか使われていない。
やはり『日常』は記録に残されないんだね。そう思うと、かえって気になってしまう。タイムマシンがあったら、頼朝が彼女をどう呼んでいたのか確認してみたいなぁ。
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