原作はさらにクレイジーだった
少し前、かなり久しぶりに『ファイト・クラブ』という映画を観た。初めてのときの驚きはないものの、種明かしがわかっているゆえの面白さがある。『シックス・センス』という作品も同じで、答えを知っているからこそ理解できるカットがある。
そのときふと気づいたのが、『ファイト・クラブ』の原作を読んでいなかったこと。あの独特の世界観を文章でどのように表現しているのだろう。気になったので読んでみることにした。
2022年 読書#36
『ファイト・クラブ』チャック・パラニューク著という小説。映画はかなりぶっ飛んだ内容だけれど、原作はそれ以上だった。有名な作品なのでストーリーの説明は割愛する。種明かしだけを述べておくと、ファイト・クラブを創設した『僕』とタイラーは同一人物だということ。つまり多重人格者だったという答え。
映画の主人公の『僕』はエドワード・ノートンが演じ、タイラーはブラッド・ピットが演じていた。最初からこの二人が別人として画面に登場するから、映画の場合はトリックを仕掛けやすい。客観的な映像のように見せかけて、実は『僕』の視点で描かれていたことが最後にわかる。
タイラーの姿が見えているのは『僕』だけだったということ。だけどこれが小説になると、なかなか難しい。映像でちがう人間だと最初に印象づけるのが無理だから。
そう思って読んでいると、かなりぶっ飛んだ文章だった。原作の二人よりクレイジーで、事情を知らずに読んだら慣れるまでに時間がかかったと思う。映画と同じく語り手は『僕』なので、タイラーを別人として認識している。
だけど言葉のはしばしに、『僕』の異常性が垣間見える。夢の世界のように場面が変わったり、言動が意味不明となったりする。後半になって『僕』が眠っているときにタイラーが活動していることがわかったとき、『僕』が感じているパニックが痛いほど文章から伝わってきた。
原作を読んでいると、多重人格とか統合失調症というより、霊による憑依現象に近いように思う。正体を見破られたタイラーが『僕』に脅しをかけている場面などは、悪霊に憑依されている人間のようだった。この小説を読んだあと、普通の文章を読もうとするとちょっと苦労する。すぐに切り替えできないほど、強烈な文体で書かれているから。
もちろん映画とちがうシーンはいくつかあったけれど、映画は原作にかなり忠実に作られているのがわかった。小説では『僕』の語りとなる言葉が、映画ではタイラーがセリフとして話していたりする程度。ボブが殺される場面も設定が少しちがったけれど、あまり気にならなかった。
ただ困ったのは、『僕』はエドワード・ノートンの顔しか思い浮かばないし、タイラーはどうしてもブラッド・ピットになってしまう。先に映画を観ているので、こればかりはどうしようもない。
原作を読むことでこの物語の素晴らしさを感じつつ、映画の完成度の高さを改めて認識することになった。やはりあの映画は名作と言っていい作品だと思う。
ブログの更新はFacebookページとTwitterで告知しています。フォローしていただけるとうれしいです。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。