今日のウィルバーくん 5.5
気持ちのいい季節です。耳をすませば、カラスやウグイスの声が聞こえてきます。風が吹きぬける音とともに、新緑の葉がこすれあう音も聞こえてきます。車のエンジンの音や子供たちが遊んでいる声も聞こえます。
しかしウィルバーはどれだけ努力しても、決して聞こえない音がある、と言います。
「すべての音のなかで絶対に聞こえないもの。それは聞いているものの音だ」
なぜ聞いているものは聞こえないのか? 彼はウイリアム・ジェイムズの言葉を引用して、聞いているものは実は聞こえている音の流れそれ自体だからだ、と説明しています。聞いているものは、聞こえているものすべてである、という意味です。雷の音を聞いている瞬間、雷を聞いているのではなく、私たちは雷そのものである、とのこと。
つまり本来、すべてはひとつであり、それゆえに分離は錯覚にしか過ぎない。聞こえてくる音のすべては自分自身であるから、聞いているものの音が聞こえないのだ、という意味だと解釈しています。頭がこんがらがりそうな言い回しですが、なんとなく感じられるのではないでしょうか? 彼の言葉を見てみましょう。
〜以下抜粋。
トランスパーソナルの自己の直観が深まり、熟していくと、あなたは徐々に(いや、ただちに!)、なぜ宇宙のどこにも「見者」(今、ここで宇宙を見ている者)を発見できないのか、理解する。あなたが見者をどこにも発見できないのは、それが宇宙のすべてであるからである。あなたは見者を発見できない。なぜなら、それは見られるものすべてであるからである。
したがって何か別のもの、分離した実体としては知覚できないのである。あなたが見ているものすべては、見ているあなたそのものである。すべての「私」とすべての「それ」との間の境界は、いわゆる「コズミック・コンシャスネス」(宇宙意識)のなかで、溶解する。トランスパーソナルな自己の「目撃者」でさえ、目撃されるすべてのもののなかにばらばらになって溶け込む。
あなたは、対象ないし「それ」を知覚するのではない。あなたがすべての対象、すべての「それ」なのである。分離した主体は、意識のフィールドのなかとは別のところに、立っているわけではない。禅で言うように、どこへ行っても、あなたは自分のもともとの顔、すなわち「あなたの父母が生まれる以前の顔」を見ているのだ。ラマナ・マハリシは言う。「覚醒したものは宇宙と自分とを、違ったものとして見ない」
〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『それがあったところに、わたしはなる』より。
すべてはひとつであること、すなわちワンネス意識を的確に説明している文章だと思います。難解な文章になるのは、言葉にできないものを表現しようとしているからでしょう。
五感で知覚できる対象物に対して、自分から分離したものとして私たちはとらえています。ところがそれらを知覚している「意識」としての『本当の私』を、見たり聞いたりすることはできません。なぜなら『本当の私』とは、知覚しているすべてだからです。
理屈として理解できても、それを実感できません。それは私がまだ分離という錯覚にとらわれているからですね。でも最も大切なのは、今の自分がそうだと知ることだと感じています。その時点で、ようやくワンネスへと至るスタート地点に立ったことになるのでしょう。
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