SOLA TODAY Vol.239
ある人のブログのタイトルを見て、興味を持った。それはこんなタイトルだった。
スピ系っぽいタイトルだけれど、内容はちがう。ある予備校の教師が「勉強は贅沢品なんだから、やりたくなければやめればいい。自分がいかに恵まれているかもわからない人間が勉強したって意味がない」と発言したことについて、著者の考えを述べたもの。
その主旨としては、予備校教師の言っていることを肯定しながらも、違和感を拭えないという内容だった。著者はブログでこう書いている。
『人間、ある時の判断が正しかったかどうかというのは、少し経ってからわかるものです。もっと言えば、すこし経って「わかった」、その判断というのも、更にもう少し経つと考えが変わったり、良いと思ったことが悪くなったり、悪いと思ったことが良くなったりするものです。人間万事塞翁が馬、クルアーンの話で言えばヒドルとムーサーの逸話のようなもので、何が本当に良い判断かというのは、そうそうはっきりしたものではありません。最終的には死なないとわかりません』
ボクもそのとおりだと思う。わかりやすい言葉で言えば、成功と失敗を例にあげられる。成功したと満足している人が、次の日には絶望に打ちのめされているかもしれない。反対に失敗で落ち込んでいた人が、そのことによって成功体験を引き出すこともある。
要するにどの時点で判断するかによって、答えはちがってくる。自分の人生は幸せに満ちていると思って生きていた人が、死ぬ直前に自分が不幸だと感じたら、それが人生の答えになってしまう。逆もまた然り。
ましてや人生において、結果がすぐに出ることのほうが少ない。小説を書いていたら、そのことは痛いほどわかる。どれだけ時間をかけて物語を書いても、結果が出るのは完成してからでもかなりの時間を要する。
そしてその時間と労力がボツになることは、いくらでもある。お蔵入りした原稿は相当あるし、これからも増えていくかもしれない。だから結果だけに意識をフォーカスさせてしまうと、自分はただ無駄な時間を過ごしているだけではないか、という不安に押しつぶされる。そんなことはしょっちゅうだ。
このブログの著書が言うように「真理は遅れてやってくる」と思う。でもそれを知ったからと言って、なんのなぐさめにもならない。振り子のようにゆれる成功と失敗、無秩序にやってくる幸せと不幸のあいだを、行ったり来たりして右往左往するだけの人生になってしまう。
だったらどうすればいいのか?
ボクは未来の結果に真理を求めない。もちろん真剣に書いているわけで、本気でベストセラーを狙っている。でもそこに真理があるとは思っていない。
ボクが求めている真理は、「行為そのもの」にある。『今』という瞬間に自分がやっていることに真理を見つけ、楽しみや喜びを感じたいと思って生きている。
つまり「真理は遅れてやってくる」ということが事実だとしても、それを本気でぶち壊そうと思っている。『今』に真理を見出せば、遅れてやってこないから。
小説の場合なら、書くことそのものに夢中になっている。書くことが苦しかったりしんどかったりしても、楽しさを感じることはできる。そうでなければ、やり方がまちがっているか、自分に向いていないことをやっているだけ。
掃除をしていても、散歩をしていても、結果じゃなく行為そのものに夢中になろうと意識している。どんな単純作業だって、意識の持ち方次第でゲームのように楽しむことができる。限定した未来の結果にフォーカスするから、いやいや行動することになってしまうだけ。
だって人間はいつ死ぬかわからない。突然『死』がやってきたときに、つまらないことをやっている最中だったらショックだと思わない?
でも死の時期の予測なんてできない。だから『今』に夢中になっていれば、それなりに満足した人生だと思えるはず。
自分は不幸だ、運がない、社会が悪い、政治がなっていない、というようなことばかり考えていたら、その意識のまま人生の最後を迎えてしまうよ。
だったらやらなければいけないことを、どうすれば面白くできるか考えるほうが楽しい。時間をかけて作った料理が劇的にマズくても、口にするときには笑いながら食べたい。悔しくて泣いているときでも、それがかけがえのない経験だと思って受け入れたい。
というようなことを考えた記事だった。
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
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