パターンより大事な必然
ファンタジー映画には、一定のパターンがある。善悪の戦いがメインであり、時空を超えてバトルがくり返されることが多い。それゆえ通常の物語にはない突飛な設定が採用されるけれど、優れたファンタジーはそうした設定に違和感を持たない。そのぶっ飛んだ発想を支えている『必然』が設定されているからだと思う。
でもパターンだけ踏襲していて、その『必然』が弱いと苦しい物語になってしまう。なぜ、なぜ、なぜという言葉がずっと頭の中でリフレインするから。そうなると素直に物語の世界に入っていけない。いいパターンなんだけれど、ちょっと『必然』が弱いファンタジー映画を観た。
2022年 映画#31
『ラスト・ウィッチ・ハンター』(The Last Witch Hunter)という2015年のアメリカ映画。主演をヴィン・ディーゼルが務めていて、アクション映画としての基本は問題ない。脇を支えるのが名優のマイケル・ケインで、写真のイライジャ・ウッドもいい役どころだった。
物語のスタートは800年前。ヴィン・ディーゼル演じるコールダーは魔女ハンターで、当時流行した黒死病を撒き散らした魔女の女王を狙っていた。魔女を殺すには炎を発する剣で心臓を刺さなくてはいけない。
死闘の末、コールダーは魔女を追い詰める。ほぼ勝利を手にした直前、魔女に呪いをかけられる。それは不死の呪いだった。その後、800年が経過した現代においても、コールダーは姿を変えて違法行為に手を染める魔女を捕まえていた。
コールダーの相棒となる神父はドーランと呼ばれ、魔女に立ち向かう組織を代表していた。第36代ドーランをマイケル・ケインが演じ、彼が呪いをかけられたあとのドーランとなったのがイライジャ・ウッド。
800年前の因縁を考えると、予想できるパターンがある。それは魔女の女王の復活。もちろんこの作品もそのパターンを踏襲していて、女王の蘇りを計画する魔法使いたちが36代のドーランに呪いをかけた。その犯人探しと、女王との対決がこの映画の基本ストーリー。
ここまではいい。ファンタジーのパターンとしてありがちだけれど、容認できる範囲。ただ、そのあとの『必然』がかなり微妙だった。
女王に呪いをかけられたコールダーは、女王の心臓を止めてしまうと彼も死ぬという設定。800年前に瀕死のコールダーを発見した仲間たちは、まだ動いている魔女の心臓を手にした。だけどそれを止めたらコールダーも死んでしまう。だからその心臓を密かに隠したということになっている。
ここでボクは『待った』をかけた。世界を滅ぼすかもしれない魔女を滅亡させるチャンスなのに、なぜコールダーの命を守ろうとしたのだろう? 気の毒だけれど、そこで女王を完全に抹殺するべきだった。結局はコールダーと女王の対決を800年後に持ち越すための安易な設定にしか感じない。
例えば『指輪物語』のように、悪の指輪を手にした人間が心を乗っ取られるのならわかる。女王の心臓にそうした呪いがかかっているなら、まだ『必然』として認定できる。でもそこをあやふやなまま現代まで持ってきているので、ずっと引っかかったままでエンディングを迎えてしまった。
そしてラストではコールダーは女王の心臓にとどめを刺さない。死んでは嫌だと、恋人に止められたから。それはアカンやろう。そこは最低でも自己犠牲を選択して世界を守らなくては。でも続編を作るとするなら、その心臓を生かしておかなければいけない。ここでボクはしらけてしまった。
それ以外にも、魔女の女王の素性が明かされていない。これも気になってしまう。パターンは大事だけれど、それだけではファンタジーとして残念なことになってしまうことを実感した作品だった。
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