辛さは本人にしかわからない
中年になると、若いころには感じなかった肉体の不調が出てくる。まぁ、それが老化というものだろう。
だけどその辛さを他人に説明するのは難しい。具体的な数値で指標化できるのなら、ボクのしんどさは8.5だと他人に伝えられる。どの程度辛いのかもわかってもらえるだろう。
でも痛みやしんどさは、主観的要素に支配されている。もし自分が感じている辛さを他人が経験しても、たいしたことないやん、と言われるかもしれない。逆に、ようこんな状態で我慢してるね、と心配される場合もあるだろう。
つまり、どれだけ辛いかは、本人にしかわからないということ。
この記事を読んで、そのことをさらに実感した。
著者の息子さんは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)と軽い自閉スペクトラム症とのこと。いわゆる発達障害の症状があった。現在は21歳になられて、社会人として生活しておられる。
だけど小学生のときには、なかなか大変だったらしい。とにかく勉強が嫌いな子供で、どれだけ宿題をするように言っても耳を傾けてくれない。当然ながら成績は悪い。
さらに異常なほど忘れ物が多かったとのこと。修学旅行や林間学校に行くと、必ずと言っていいほど洗面道具を忘れて帰ってくる。何度も注意するように言ったけれど、やっぱり忘れてしまう。
親としてはガミガミ言うしかない状態だったけれど、とにかく息子は勉強が嫌いなんだと思い込んでいたそう。ところが成人してから息子さんとじっくり話し合ってみると、予想外の答えが返ってきた。
勉強が嫌いなのではなく、勉強をしようと思ったときに、ふと別の楽しいことを考えてしまう。そうするとその映像が目の前に現れて、教科書やノートが見えなくなってしまう。
これは見えない気がするという程度ではなく、マジで消えてしまうらしい。まさしくイリュージョンの世界。洗面道具についても、顔を洗っているときは持って帰ることを意識している。だけど外で遊んでいる友人たちの声が聞こえると、そのイメージが映像になって洗面道具が目の前から消えてしまうそう。
そりゃ自分にとって存在しないものを、持って帰ることはできないよね。この感覚やそれに伴う辛さは、本人にしか理解できないことだと思う。
ボクでも似たような経験がすることはある。音楽を聴きながら小説を書いているけれど、集中力が高まって小説の世界に入り込むと音楽が消えてしまう。実際には聴こえているはず。だけど脳で音として知覚されない。
だから1時間ほどイヤホンに流れていたはずの音楽が、ふと気がつくと最後の曲まで終わっているということがよくある。いまはこの曲がかかっているなぁと感じているあいだは、本気で集中していないということだろうね。
他人の感覚を理解しようと思えば、この親子のように話し合って歩み寄るしかないんだろう。それでも本人しかわからないのは事実。だから自分の感覚だけで、他人の状態を判断したり批判しないことが大切だと思う。
結局、人間が生きているのは主観の世界だからね。
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