キリスト教の原罪論の理解に接近
ボクは地球上のすべての宗教が根っこは同じだと考えている。それゆえ特定の宗教を信仰していないけれど、どのような宗教にも興味を持っている。表現方法がちがうだけで、共通するたった一つのシンプルな『教え』が存在しているはず。そう思って、日ごろから関心を持っている。
一般的に知られているのは、仏教、キリスト教、そしてイスラム教だろう。ユニークな宗教としては、インドのヒンドゥー教も興味深い。もちろん日本の神道にも、同じ根っこが存在していると思う。
そんななか、ボクが以前から同意できなかったのはキリスト教の原罪思想。小学校入学前の幼稚園がキリスト教系だったので、子供なりに関心を持って先生に尋ねた。家の近くに教会があったので、神父さんに質問したこともある。だけどやはり納得できない。
人類のすべてが罪人で、その罪を贖うためにキリストが十字架にかけられた。そしてボクたちは、その罪を悔い改めなくてはいけない。
いまこうして書いた文章を自分で読んでも、やはり違和感しかない。キリスト教のこの部分がどうしても理解できなくて、ずっとモヤモヤしていた。ところがある本を読んで、少しだけ理解が進んだかもしれない。
2022年 読書#6
『神の小屋』ウィリアム・ポール・ヤング著という小説。昨年に『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』という映画を観て、どうしても原作を読みたくなった。なぜなら扱っているテーマがキリスト教の原罪だったから。
映画はとても不思議な作品で、もし未見の人がいたらオススメ。主人公のマックを演じたサム・ワーシントンがとても素敵だった。ストーリーの概略を紹介しておこう。
マックは3人の子供と妻と幸せに暮らしていた。ちなみにこれは映画の設定で、原作では5人の子供がいる。下の子供の3人であるジョシュ、ケイト、ミシーを連れてキャンプに行った4人。妻は仕事で参加できなかった。
ところが悲惨な事件が起きる。ケイトがふざけてカヌーを倒したことで、ジョシュが溺れかけた。必死で息子の命を救ったマックは、まだ幼いミシーの姿が消えていることに気づく。実は救助のあいだに連続殺人犯に誘拐されて、殺されてしまった。遺体は見つかっていない。
マックは当然ながら落ち込むし、姉のケイトは責任を感じて心を閉ざしてしまった。そんなマックに、神から招待状が届く。ミシーが殺害されたあの小屋で会おうと書かれていた。疑いながらもその小屋に向かったマックが、神との遭遇を経験するという物語。
キリスト教の三位一体、つまり父と子と聖霊が象徴するように、待っていたのは3人の人物。神、イエス、そして聖霊であるサラユーという名の女性。その3人に会うことでマックは創造の真実を知り、死んだミシーとの再会、殺人犯を赦すこと、そしてケイトへの愛を確認する。
予想したとおり、映画とちがって原作はとても詳しく語られていた。どちらかといえば小説というよりも、スピリチュアルな書籍のような内容だった。原作の翻訳をした吉田利子さんは、有名な著作である『神との対話』の翻訳者だから適任だったと思う。
とにかく一般的なキリスト教の概念をさらに深く解説した小説で、著者の霊的体験が基になっているそう。ボクが思わず笑ったのは宗教組織としてのキリスト教を否定するイエスで、「わたしはクリスチャンではない」と言い切るwww おそらくブッダも同じことを話すだろうと思う。
さて原罪について。このブログで書けるようなことじゃないけれど、少しだけ触れておく。この小説における神の言葉がヒントだった。アダムが禁断の木の実を食べたときのこと。
「人間は自分勝手に独立することを選択した」というセリフ。
キリスト教的な理解を超えてこの言葉を見ると、そこに深い意図を感じる。それはワンネス思想。すべては一つだというボクの確信。
だけど人間は自我を有することで、ワンネスを再確認しようとしている。一つから離れて『自分』になることで、ようやくたった一つのものを理解できるから。つまり正確にいえばそれは『罪』ではなく、意図的な離脱、分離だということ。
その解説がキリスト教になると、『原罪』という意味で伝えられたんだと感じた。本当は罪ではなく選択だったけれど、そのほうがわかりやすいからね。そして神の元へ戻ること、つまりワンネスへと帰ることが人間の存在理由。やはり全ての宗教は根っこでつながっていると思う。
とても素敵な小説なので、気になった人は手に取ってほしい。マックに感情移入することで、ある種の覚醒体験ができると思う。
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